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2007年8月

2007/08/30

■もしかしたら「危うい話」

「少し危うい話」「かなり危うい話」を以前書きました。
今回は「もしかしたら危うい話」です。

私は静電気を帯びやすい体質です。
空気が乾燥している冬季には、車や玄関のドアを開けようとすると火花が出て、身体にかなりの衝撃を受けるので、怖さを感じます。
身体の一部が振動し、静電気を放出しているのではないかというような気になることもあります。
音すら感ずることもあります。
時には自分は電気仕掛けのアンドロイドではないかと思うことさえあります。
やや思考回路に欠陥があるアンドロイドですが。

静電気はたぶん生命エネルギーにつながっていると思いますが、そうした静電気が念力につながらないものかといつも思っています。
これまでいろいろと試みたことはありますが、残念ながらまだ効果を確認できません。

女房のがんが再発して以来、いろいろと挑戦をしています。
私にもし念力があれば、女房を元気にできるはずです。
呼吸が苦しい女房の胸に手をかざして、全宇宙のエネルギーを自分に集中させると、数分で私の手の甲が温かくなってきます。
そこで女房の患部に向けて、放出するわけです。
一度だけ、ちょっと呼吸が楽になったといわれましたが、その時以外は、苦しんでいる女房からそんなことよりマッサージをしてほしいといわれてしまっています。
そこで彼女に気づかれないようにやっていますが、残念ながら効果がでてきません。
時には女房から手で払われることすらあります。困ったものです。
しかし、手で払われるということはきっと何がしかの念力が出ているわけです。

女房がお腹のガスが出なくて苦しんでいる時にも同じように手かざしで念じました。
エネルギーを集中するのは結構大変で汗びっしょりになります。
その時もそうでしたが、おならが出たのは女房ではなくて私からでした。
力が入りすぎたのです。いやはや、女房からは笑われてしまいました。
ガスよりも笑いのほうが癒し効果はありますので、まあこれは成功です。
しかし念力の効果はなかったわけです。困ったものです。
そんなことで、女房からも家族からも私の念力は信頼されていませんが、繰り返すことによってパワーアップできるかもしれません。

最近は光明真言を唱えています。
最近ようやく本気で唱えることができるようになりました。
きっとそのうち、効果が出てくるでしょう。

人間には誰にも念力があるはずです、
すべての生命は宇宙につながっており、その生命力の源泉は宇宙です。
宇宙は無限に広がっていると同時に、インドラの網のように個々の生命体のなかに凝縮されています。ですから宇宙の全エネルギーは、本来、個人の身体にも宿っているのです。
その念力を思い出さなければいけません。
仮に私が出来の悪いサイボーグだったとしても、宇宙のエネルギーの一翼を担っているとすれば、必ず念力は持っているはずです。

いつもと違い、不真面目の記事だと思われるかもしれません。
そんないい加減な看病をしているのかと呆れられるかもしれません。
しかし、不真面目でもいい加減でもなく、私は極めて真剣に念力開発に取り組んでいるのです。

念力が奏功して、女房の元気が回復することを心底目指しています。
ですから、みなさんもぜひ私にエールを送ってください。
みなさんからの念力が私の力不足を、きっと補ってくれるでしょうから。
さて今日も汗をかきながら、念力を試みます。光明真言を唱えながら。
あまり皆さんには見せたくない姿ですが。

ちなみに、「もしかしたら危うい話」とタイトルをつけましたが、その意味は、この記事を読んだ人が、「もしかしたら」私を「危うい人」と考えて、このブログの説得力が一挙に瓦解する「危うさ」があるということです。
まあ、もともとこのブログには説得力などないよという人が多ければ、これは杞憂におわるのですが。はい。

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2007/08/29

■「介護で苦労するくらいなら消費税は高くてもいい」

言葉をあげつらうのではありませんが、ちょっと気になる発言があります。
厚労相に新任された舛添要一さんが、朝日新聞の取材に応じて、次のように答えています。

母親を介護した経験があるが、あんな苦労をするぐらいなら、消費税率が10%、15%になっても喜んで払うと言う気持ちはいまでもある。
いま、私は女房の介護をしています。
たしかに大変です。身体的にも時間的にも、そして経済的にも、です。
しかし、この発言にはなぜか違和感を持ちました。
舛添さんの思いも良くわかりますし、共感もするのですが、どこかでひっかかるのです。
女房の介護をする前であれば、違和感を持たなかったかもしれません。

それに私は消費税を中心にした税体系にすることには大賛成です。
15%どころか20%でも良いと思っています。
現在の社会の経済的基盤は消費だからです。
それに納税が公平である上に、見えるようになるからです。
税はある意味での「保険」ですから、個別の苦労を回避するために納税すると言う発想も理解できます。

なぜ違和感を持ったのでしょうか。
それはこの発言の奥にある、「介護の苦労はしたくない」「できれば消費税は低いほうが良い」という、舛添さんの深層意識への反応かもしれません。
それは舛添さん個人の意識というよりも、いまの日本社会が持つ集団意識、文化かもしれません。
そうであれば、私もまたそうした思いから、たぶん自由ではないでしょう。
どこかに同じ思いがあることは否定できません。

しかし、私が今、感じているのは、「介護」や「看護」は、経済主義では解決しないし、解決させるべきではないということです。
介護や看護は、実は人が生きていく上での中心的な課題、仕事なのではないかと言うことです。
生活そのものかもしれません。これは福岡の西川さんからも教えてもらったことです。
イリイチがメッセージしているのも、そういうことかも知れません。

家庭での「介護」や「看護」は、資本主義経済にはなじまないでしょう。
資本主義経済になじむのは、介護の社会化、福祉の産業化です。
しかし、改めてそうした流れを問い直すことも大切ではないか。
そこにこそ、新しい社会のあり方を考えるヒントがあるのではないか。
新しいライフスタイルや文化を考えるヒントがあるのではないか。
そんな気がしてなりません。

「介護を苦労と思わないような社会」
「できれば消費税をはじめ、税金をたくさん納めたくなる社会」
そうした社会は決して夢ではありません。
たとえば佐賀北高校野球部への寄付が広がっています。
自然災害地への応援や難病家族への支援も広がっています。
助け合いの文化は人類古来の文化だったのではないかと思います。
それが回復できないはずがありません。

ちなみに、この記事は決して舛添さんを批判しているものではありません。
念のため。

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2007/08/28

■男女共同参画社会と男女役割分担社会

昨日引用したイリイチの小論を引っ張り出して改めて読み直しました。
全く記憶に残っていなかった、次の文章に出会いました。
我が意を得たりという気がしました。
ちょうど数日前に書いた賃労働にもつながる話です。

社会にとって何が必要な仕事なのかということは、それぞれの文化が決定することであり、それぞれの社会によって異なる。また、どの仕事を男の仕事とし、どの仕事を女の仕事とするかについても、それぞれの社会ごとにユニークなパターンがある。(「暴力としての開発」『暴力と平和』1982所収)
ところが、資本主義経済は、男女の役割分担に基づく仕事という発想を否定し、「労働の中性化」(イリイチ)を推し進め、表情のない貸金労働を仕事の主流にしてしまったのです。
そして、仕事の価値は、生活や社会の維持の視点からではなく、経済的な視点から評価されるようになってしまいました。
しかも、それが男性に有利に仕組まれたために、それまで共存してきた男女間に競争を持ち込んだとイリイチはいいます。

私が会社に勤めていたころ、「お茶汲み」は女子社員の仕事なのか、と言う議論が話題でした。
「お茶汲み」はもう死語になっただろうなと思ってネット検索してみたら、なんと今もなお問題になっているようです。
会社時代、私は、「お茶汲み」の仕事と経営戦略スタッフだった私の仕事と比べたら、「お茶汲み」のほうが大きな価値を持っていると思っていました。
職場の女性社員にもそう話していましたが、だれも賛成してくれませんでした。
しかし、会社の長期計画をたてたり、事業開発に取り組んだりする私の仕事よりも、人と人をつなげたり、人の気持ちを幸せにすることにつながる「お茶」を用意する仕事のほうが価値があると考えたのです。
それに仕事としても「奥の深さ」がありそうですし。
しかし、それはみんなには理解されないことでした。
なぜそんな「当たり前のこと」が理解されないのか、私は不満でしたが、そうしたことがたくさんありました。
企業を辞めたいまも、たくさんあります。

そのひとつが、男女共同参画の動きです。
以前も書きましたが、私は昨今の男女共同参画の動きには大きな違和感を持っています。
もちろんフェミニズムにも、です。
頑迷固陋な女性蔑視の人間のように誤解されそうですが、男女共同社会などという発想は、私にはそれこそ人間蔑視の象徴のような発想なのです。
なぜ私がそう思っているのか、イリイチはとても説得力を持って語ってくれています。
そう思いませんか。

大きなところでおかしな発想は、小さなところで正しければ正しいほど、おかしなことになるのです。
男女共同参画と発想は、参画に喜びを感ずるほどに自らを卑下している「臣民の発想」ではないかと思います。

地に足つけて主体的に生きている人たちは、しっかりと男女役割分担しています。
テレビの「鶴瓶の家族に乾杯」をみれば、そのことがよくわかります。
それに比べて、たとえば政治の世界の女性たちの動きを見れば、男女共同参画社会の本質が垣間見えてきます。小池議員は、そのことを明らかにしてくれているような気がします。
そろそろ男女共同参画などという侮蔑的な発想から自由になりませんか。

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2007/08/27

■平和は輸出できません

昨日書いたテロ特措法に関して、アフガンとイラクは違うと言う議論があります。
国連との関係で言えば、確かに違います。
しかし、もっと大きな枠組みで言えば、同じ話です。

イラクでもアフガンでも相変わらず死者が続出しています。。
いずれの場合も、日本は国際平和や人道支援を理由に関わっています。
しかし本当に関わることが平和のためなのか。
いまではもう昔の話ですが、イバン・イリイチが日本で行った講演で、次のように述べていたことを思い出します。

ある文化から他の文化へ平和を輸出することは不可能である。もし輸出したならば、その独自の平和は枯れてしまう。したがって平和の輸出なるものが行われたとしたら、それは実際には戦争でしかない。(「暴力としての開発」『暴力と平和』1982所収)
平和に関する捉え方はいろいろありますが、平和とは本来、まじめに生きている人たちが自分たちの文化のなかで気持ち良く暮らし続けること、と考えていいでしょう。
そうした平和概念は、近代工業の勃興に伴い大きく変質しだすわけですが、1949年のトルーマン演説によって、加速的に変質しました。
経済成長志向に基づいた「開発」戦略が世界の主流になってしまうのです。

かつてキリスト教徒が宣教という侵略行為を行ったのと同じ発想で、資本主義経済が世界を「豊か」に「開発」しだしたのです。
そして、今や平和は開発によって達成されるという通念ができあがったとイリイチはいいます。
そうした平和を彼は「パックス・エコノミカ」と呼びますが、まさにそのパックス・エコノミカが古来の「民衆の平和」を壊してきたというのがイリイチの考えです。
この視点で、20世紀を振り返ると、まさに20世紀は「開発の世紀」であると同時に、「戦争の世紀」だったことの意味がよくわかります。
そして、そうした展望の中で、テロ対策やアフガンやイラクへの関わりを考えると、平和憲法を手に入れた日本の役割は、もう一つの選択があるのではないかと思われます。
「平和」という言葉は実に多義的な言葉なのです。
テロ特措法のもつ意味もまた、決して一義ではありません。

ちなみに、テロ特措法の延長と経済成長重視政策とは深くつながっているわけです。

イバン・イリイチの「暴力としての開発」は、ぜひ多くの人たちに読んでほしい論文です。
特に、いま「平和活動」に取り組んでいる人たちに、です。

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2007/08/26

■一兵卒政権としてテロ特別措置法

テロ特別措置法の延長に民主党の小沢代表が「ノー」と明言しました。
私は、この法律が議論になりだした時から、違憲立法であり、戦争を増長するものという判断で、反対でした。
それに「テロ」を対象にするという発想にもなじめませんでした。
テロは誰だという問題を明確にしないと恐ろしい法律に転化しかねないからです。
久しぶりに女房と一緒に反対のデモにも参加しました。
小泉クーデターによる軍事国家化につながる法律には賛成できません。
ニーメラーの教訓に学んでも、なかなかその教訓を活かすことは難しいです。

小沢代表が反対を言い出したときにはにわかには信じられませんでしたし、駆け引き的なものにも思えましたが、まあ素直に喜びました。
彼は、前原さんや岡田さんのような、戦争を知らない戦争好きな戦争ごっこ世代とは違いますから、もしかしたらなどとありえない期待までもしたくなりました。

まあ、それは夢なのかもしれませんが、この小沢民主党の行動に対する有識者やマスコミの論調には腹立たしさがあります。
たとえば、この法律を延長しないことは国際社会の一員としてはありえないなどという大学教授や政治家がいます。
最初、私は耳を疑いましたが、それはそれほど少数意見ではないようです。
どうしてそういうことになるのでしょうか。
歴史をもっと勉強してほしいものです。

さらに、この法律の延長を認めることが、政権担当能力があることの証だというような意味の発言もテレビで聞きました。
政権担当能力とはいったいなんのでしょうか。
アメリカのいいなりになって、世界の平和を壊す一員になる事が国際社会のメンバーシップの要件なのでしょうか。
そして、その切符を手に入れることが政権担当の資格要件なのでしょうか。
なにかやりきれませんね。

小池防衛相は、次の政権では防衛相を引き受けず、自民党の一兵卒としてがんばりたいと昨日述べました。
「一兵卒」。驚きの言葉が出てきました。
軍国主義政府の担い手を自認しているのでしょうが、恐ろしい言葉です。
ブッシュ政権の一兵卒政権の一翼を担っていることを象徴しているのでしょうか。

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2007/08/25

■がんとの付き合い体験をお話します。必要があればですが。

女房はいま、がんで闘病中です。
CWSコモンズで時々書いていますが、4年前に胃がんの手術をし、それが昨年再発、7月末に体調が悪化し、現在は在宅療養で、私もこの1か月はほぼ付き添っています。
状況はかなり厳しいですが、希望を持って、家族みんなで前向きに取り組んでいます。
私は女房が治って元気になると確信しています。

このブログにもその体験から感じたことを少し書いていますが、そうした記事へのアクセスが少なくありません。昨日も関連記事をまとめて読んでくださった方がいます。
私もそうですが、「がん」に関する情報はネット上に膨大にありますが、なかなか知りたいことが見つからないものです。情報発信者が見えないこともあり、読み方も難しいです。
同時に、自分が気づいたことや知ったことは知らせたくなります。同じ苦労をさせたくないという気持ちになるのです。
しかし、人間の身体はそれぞれ違い、自分たちの体験が正しいとは言えませんから、それを伝えることがいいのかどうかは迷います。多くの場合は、伝えずに終わりますが、でも心の中では話して伝えたいと思うことも少なくありません。

患者やその家族の会や集まりも少なくありませんが、私たちはそうした会には参加していません。しかし同病の人たちとの交流はあり、女房はその人たちに一番元気付けられています。
体験者の話は参考になることがすくなくありません。

そこで、もしこのブログを訪れて、もう少しこんなことを知りたいという方がいたら個別にメールをいただければ、知っている限りのことをお伝えしようと考えました。
がんに関することは極めて個別であり、それぞれの人によって表情も実情も違いますから、お役に立てないことがほとんどでしょうが、お役に立てることもあるかもしれません。
私たちは、ある情報をもう少し早く知っていたら良かったという体験を何回かしています。いずれも「後知恵」ですので、早く知っていても対応できたかどうかはわかりませんが。

がんは、一筋縄では行かない病です。
医学の知だけではなく、もっとホリスティックな対応が必要な気がします。
お答えできるかどうかはわかりませんが、メールをいただければ可能な範囲で返信させてもらいます。
ただ、現在も女房と一緒に闘病中ですので、女房の状況次第で返信が遅れることもあることをご了承ください。

女房の在宅介護のため、最近はあまり誰かの役に立つことができません。
こんなことで社会の役に立つなどとは思えませんが、役に立てれば本当に嬉しいです。

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2007/08/24

■月光族主導パラダイムからの脱却

中国では月光族が経済を主導しているようです。
月光族とは、毎月の収入を毎月使い切って消費生活を楽しんでいる人たちだそうです。
資本主義の牽引力は、「生産」ではなく「消費」にありますから、遅れて参加した資本主義経済にとっては月光族育成は効率的なスタイルです。多くの国民が、消費機関となって経済を先導してくれるわけですから。
しかし、その効率性のゆえに、早い段階で破綻に向かうのではないかと思います。
中国経済はあまりに規模が大きすぎるからです。

日本の資本主義も「消費美徳論」が広がってから勢いを強めたのですが、その前に「貯蓄の文化」が支配していた時代がありました。
貯蓄文化は、しかし日本古来の文化ではありませんでした。
宵越しの金は持たない生き方、清貧の生き方は、日本人の生き方でした。
いや、もしかしたら、それが生命体としての自然な生き方なのかもしれません。
日本の資本主義、近代経済は、意図的につくられた「貯蓄の文化」によって育ってきたともいえます。
貯蓄が金融機関を通して、結局は「消費」されていたわけです。

要するに「貯蓄」と「消費」とはコインの表裏に過ぎません。
このことを象徴するのが年金財源の浪費です。
消費に駆り立てる資本主義のパワーは、行政の分野で大きな威力を発揮し、膨大な借金財政を実現しました。その流れの中で、年金財源が不正に浪費されていったわけです。
これを主導したのが産官コンプレックスに操作された「政治」なのではないかと私は思っています。
日本の政治には主体性が不在でした。ですから志も思いもない人が国会議員になれるわけです。サルほどの知恵もない国会議員が増えてしまったのはそのためです。
主体性を持てなかったのは、せっかく新しい平和国家というコンセプトを手に入れながら、それを活かす確かなビジョンがなかったからです。

日本はともかく、月光族に主導される中国の経済はどうなるでしょうか。
このままだと破綻は免れないと思いますが、それを補償し、次の段階に移行するシナリオはあるのでしょうか。
もしそれに失敗すれば、世界に激震が走り、混乱と不幸が広がりかねません。
それを回避するために、また新たな市場を創出するための戦争や環境破壊が意図的につくられるかもしれませんが、そうしたこれまでのような発想ではない、新たなシナリオが描かれないものでしょうか。
そのためにこそ、世界の知を結集しての取り組みが行われるべき時期だと思いますが、そうした「大きな物語」への取り組みは、最近、あまり聞こえてきません。
未来への関心は失われてしまったのでしょうか。
改めて未来を構想し、その実現に取り組む活動が期待されます。

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2007/08/23

■危機管理能力って何でしょうか

自民党や公明党は、今回の選挙の総括を行った結果、敗因は「危機管理能力の欠如」だったと言う結論に達したそうです。
なんだか問題の本質を摩り替えているように思います。
大敗したが政策は理解されたという安倍首相の発想と同じです。
「危機管理能力」を原因にするということは、「実体」には何の問題もないという意識につながりますから、本質は何も変わらないですませられます。
「政策」や「内容」で考えるのではなく、「手法」や「言葉」で考えていては、結局は何も変わりません。その根底には責任転嫁の発想があります。

もっともこうした見方はマスコミの論調でもあり、その影響で多くの国民もまたそう考えているようです。
そうした発想からは、このブログにも投稿があったように、国民は民主党に政権をとらせたいと思ってはいないというような推測が出てくるわけです。
*この文章は私の勘違いでした。投稿してくださったseikurouさんに深くお詫びします。コメント欄をお読みください。ちなみに、この発言はTVたっくるでの誰かの発言だったと思います。
しかしそうでしょうか。
もっと本質的なところで、つまり政策・施策内容や政治家としてのビジョンや思想に関わるところで、こうした結果が出たのではないかと思います。
私の周辺では、少なくともそうした意見の人が少なくありません。

それに「危機管理能力」ってなんでしょうか。
新しい言葉にごまかされてはいけません。
多くの人はカタカナ言葉にだまされるなといいますが、そういう人に限って、日本語にだまされるのです。言葉のごまかしは日本語でこそ行われます。
意味も内容も考えずに、民営化と言う言葉にだまされているように。

危機管理はリスクマネジメントの訳語です。
危機とリスク、管理とマネジメントは、微妙に違います。
それに関してはいろいろな場で話してきましたし、CWSコモンズにも関連した小論も掲載していますが、危機管理能力の欠如などと簡単に総括せずに、もっとしっかりと総括すべきだと思います。
危機管理能力の欠如は、あくまでも二次的な話です。

たとえばミートホープや白い恋人の社長が、事件を総括して、自社の危機管理能力が欠如していたと発表したら、みなさんはどう感ずるでしょうか。
問題が違うと思うかもしれませんが、問題はつながっています。
自民党の敗因は、危機管理能力の問題ではありません。
自民党の実体に原因はあるのです。

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2007/08/22

■重要な問題と瑣末な問題

今日は反省です。

1か月以上前の話です。
夜の11時過ぎでしたか、就寝してまもなく電話がなりました。
友人からでした。
あることで悩んでいて、それを聴いてほしいという内容でした。
その悩みとは私にとっては、よくある話で「瑣末なこと」のように思えました。
そこでついつい笑ってしまい、そんなことで悩むのはやめたほうがいいと話しました。
当時、私も女房の病気の「問題」に直面しており、毎日疲れきっていたために、何でそんな話でわざわざ電話してくるのかという気持ちもありました。
彼女は「やっぱり笑われたか」と(後で考えると)さびしそうに言いました。
しばらく話して、電話を切ったのですが、以来、彼女からは電話もメールもきません。
人生の大きな決断をしたのかもしれません。
瑣末に思えることが人生や歴史を決めることは決して少なくありません。
電話を切ってから、そのことが気になってきたのですが、私自身の問題も大きくなっていく中で、2週間もしたら忘れてしまっていました。

昨日、女房の病気の関係で何人かの病院の人に電話しました。
この数日、ずっと悩んでいた問題の相談です。
しかし、その問題は、専門家にとってはどうも「瑣末な問題」だったようで、相談には乗ってもらいましたが、結局は私の中では解決を得られない結果になりました。
具体的な内容を書かないと伝わらないかもしれませんが、私の不安に対して、そんなことよりも今はもっと大事なことがあるからその問題は先送りにしたらというようなことです。
悪くいえば、事務的に対応されたということです。
まあ、論理的には私も納得したのですが、私の不安はむしろ相談する前よりも大きくなってしまいました。
相談に乗ってくれた人たちから見放されたような気もしました。
その時に、なぜか1か月以上前の電話のことを思い出したのです。
そうだ、私も同じようなことをしたことがあったのだ、というわけです。

客観的に考えて「瑣末かどうか」などというのは、現実の問題に直面している者にとっては無関係なことです。
その瑣末な問題が大きな問題の本質につながっているのです。
すべては「瑣末なこと」から始まるのです。
そのことに気づきました。

ケアマインドで支えあう社会が、私のビジョンです。
しかし、どうもまだ私のケアマインドは自分しか見ていないようです。
自分が弱い立場に立つと世界はようやく見えてきます。
そのことを毎日のように気づかされています。

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2007/08/21

■権力者の勝手な論理とそれに迎合する「有識者」

数日前に少し反省したにもかかわらず、やはり悪態をつきたくなりました。

テレビ番組(TVたっくる)での自民党の舛添議員の発言が、その契機になりました。
民主党のマニフェストに掲げられた具体的な数字に対するコメントのなかで、「政権をとる気がないから無責任の数字を上げてきたのが民主党」というような発言をしたのです。
さらに、今回の選挙結果で、ようやくこうして緊張感をもって議論できるようになったと言うような発言もありました。これに関しては、出演していたタレントや政治家も同じような主旨の発言をしていたように思います。
なんということでしょうか。
自民党議員の本質とそれに迎合する有識者やタレントたちの人間性が垣間見えます。

私は、前にも書きましたが、民主党は嫌いですし、数字を中心にしたマニフェストにも違和感があります。
しかし、舛添議員のような御用学者の存在にはもっと虫唾が走ります。
こうした似非学者が日本や企業をだめにしてきたと考えているからです。

政権をとる気がないから無責任な数字が言える、という発言に関しては、政策を実行する気がないから数字をださずにごまかしてきた、という返答が成り立つでしょう。
これまでの自民党にはビジョンのある政策などありませんでした。
政策などなくてもやってこられたのです。膨大な国民の財産を浪費することによってです。
そして日本をだめにしてきたわけです。

よく自民党には実績があり、民主党には実績がないと言われます。
こんな馬鹿な議論はありえないと思うのですが(政権を担っていないでどうして実績がつくれるでしょうか)、多くの国民はそうした論理をなぜか受け入れます。
確かに自民党は政権としての実績はあります。
問題はその実績の内容です。日本を壊した実績というのもあるわけです。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、数字に対して批判するのであれば、きちんと具体的に数字で反証すべきですが、舛添議員はなんと自民党は数字は出しませんというのです。

民主党が自民党に勝ったので、やっと議論できるようになったという発言も、民主主義の基本を逸脱しています。
J.S.ミルは、民主主義とはマイノリティの意見の尊重だと言っていますが、数の暴力主義を信奉する自民党には通用しないのかもしれません。
また一部の「有識者」や「タレント」が、国民は民主党に政権を任せようなどとは思っていない、などと知ったような発言をしていましたが、なぜそんなことが言えるのでしょうか。

ともかく最近の政治論議は、腹立たしいことが多いです。
なにしろ嫌いな民主党を応援したくなるのですから。
困ったものです。

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2007/08/20

■膨大な声が抹殺されている現実

今この時にも、イラクやアフガンでは不条理にも市民が生命の危機にさらされ、時に三桁の数の市民が殺害されています。
それに比べれば、日本はなんと平和なことでしょう。
言い方が悪いかもしれませんが、熱中症に気をつけないといけないと心配するくらいで、ゲリラの被害や対テロ対策のコラテラル・ダメッジの対象になる心配などする必要もありません。
「たぶん」ですが。

しかし、そうした平和の風景の背後で、実はさまざまな怒りや不安の声が語られています。
ネットの世界で情報収集したり、情報交換したりしている人たちには、そうした「もうひとつの世界」が見えているはずです。
そこでの議論を読んでいると、日本も決して安泰ではないことに気づかされますし、日本とイラクとのつながりも感ずることができますが、そうした声はなかなか大きな流れになって、現実化するまでにはいきません。
言説の世界での元気な議論で終わっているのが多くの場合です。
まさに「もうひとつの世界」になってしまっているわけです。
とてもむなしい話です。やりきれない気分がします。

時に、そうした声の一部はマスコミに取り上げられたりすることもありますが、あまり表面にはでてきません。
新聞やテレビを情報源にしている人たちには、そうした声やそれに伴う動きは見えないかもしれませんが、ネット上やオフラインの場で語られる膨大な声が存在していることはもっと認識されてもいいように思います。
市民ジャーナリズムも広がっていますし、メーリングリストなどでの意見交換の広がりは加速してきていますし、そうした声が実際の行動に育っていくこともないわけではありません。その動きはこれからもっと大きくなっていくかもしれません。

しかし、残念ながら膨大な声のほとんどは抹殺されているのが現実です。
そこで語られていることの多くは、私にはとても共感できるものが多く、テレビなどで語られている瑣末なニュースよりも重要なことに思えます。
にもかかかわらず、瑣末な事件もマスコミが取り上げると大きな事件になり、私たちの目はそちらのほうに向きがちです。
そうした声を伝えるべきマスコミなどのジャーナリズムやジャーナリストが、逆にそうした声を見えなくしている現実も皮肉な話ですが、誰の視点からのジャーナリズムかによって、情報の価値評価は変わってくるので、それもまた仕方がありません。
ニュースは「存在」するのではなく、マスコミによって「創出」されることはいうまでもありません。
マスコミの見識は国民の幸せを決めていきます。

いずれにしろネット上で語られている膨大な声が、ばらばらに仲間内の内部発信に終わりがちなのがとても残念です。
同じようなイベントも少なくありません。
これだけのエネルギーが、現実の行動として結集し、顕在化したら、歴史は変わっていくように思えてなりません。

しかし多くのそうした声は、それを目指していないのかもしれないという気もします。
私もまた、最近はそんな気分になってきています。
どうしてでしょうか。

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2007/08/19

■世界への批判は自らへの批判?

最近、私自身の「気」が沈んでいるせいか、元気が出るようなことを書けずにいます。
文章には、書き手の状況がしっかりと出てしまうものです。
このブログは、考えがまとまってから書くのではなく、書きながら考えているので、支離滅裂だったり内容がなかったりすることも少なくありませんが、それは私の状況がそうだからなのです。
まさにこのブログは、私のとっては日記なのです。

このブログを初めてから、いくつか気づいたことがあります。
たとえば、自らが置かれている心情が世界の風景を決めていくということです。
また自分が直接関わっている小さな世界と自分からは遠いところにあるものも含んだ時代的な大きな世界も、重なっていることにも気づかされました。
世界は本当にホロニックな構造にあります。
もしかすると、このブログに書かれている批判は、すべて自らへの批判と言ってもいいでしょう。人は自分のことしか批判できないのかもしれません。
そう考えると、あまり説得力が出てきませんね。

そんなことを考えたのは、この3週間、ほとんど自宅で自閉的に暮らしているからかもしれません。
いや、最近の酷暑のせいかもしれません。

「酷暑」もまた、自らの生き方と考え方の結果なのでしょうが。
どんなに暑くても、涼しく生きている人もいるのですから。

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2007/08/18

■「白い恋人」事件と食育行政

また食品業界の表示不正事件です。
北海道の観光土産として有名なチョコレート菓子「白い恋人」が賞味期限改ざんを行っていたことが判明しました。
どうしてこうも繰り返し繰り返し食品企業の不祥事が起こるのでしょうか。
その基本に、食品業界と行政の癒着関係があるように思います。
先のミートホープ社事件では、そのことが明白に見えましたが、今回もおそらく一種の馴れ合いや依存関係があったように思います。
そうしたものがなければ、これほど繰り返し同じような事件が起きるはずはありません。

40~50年前に、「公害」が話題になり出した頃、「公害発生源」の企業を守り、被害を増大させたのはいうまでもなく行政です。
最近でこそ「予防原則」なる発想が市民権を得始めましたが、当時は公害防止よりも産業成長が行政の役割でした。薬害の時もそうでした。
その姿勢は今もって変わったわけではありません。
そうした事例は、このブログでも何回か書きました。
企業は「コンプライアンス」を口に出すようになりましたが、明らかな法の抵触さえなければ「不正」や「責任回避」は今もなおコストダウンのための手段ですし、それを支援するのが産業支援行政です。
言い過ぎに思えるかもしれませんが、繰り返される企業不祥事をみれば、それは否定できない事実でしょう。

もちろん個人が意識的に「不正」を行っているわけではなく、仕組みがそうなっているのです。
今回の石水社長も、気がついたら犯罪者になってしまっていたのです。
10年前であれば、おそらく隠し通せたでしょうし、行政も援護したでしょう。
しかし、昨今の情報環境はそうしたことを不可能にしてしまったのです。

行政の産業支援は決して悪いことではありません。
しかし問題は、産業に対する理解と支援の方向性です。
そこを一歩間違うとおかしなことになります。
静脈産業支援が環境破壊を増幅するような事例がいかに多いのか、そこをもっとしっかりと認識する必要があります。

とりわけ、食はわたしたちの生命に大きな影響を与えます。
食で身体を非健康にさせ、そこに健康食品や健康産業を創出させ、さらには医療市場を拡大させることも不可能ではありません。
いや、すでにそうした産業コンプレックスが動き出しているのかもしれません。
その動きを感じているのは、私だけでしょうか。

しかし、食は産業のためにあるのではありません。
産業支援の視点ではない食産業の評価システム、たとえば生命的な評価システムが導入されるべきではないかと思います。
どうやってそれを作るか。今の行政では無理でしょう。NPOなら可能でしょうか。
この問題は、とても刺激的なテーマです。

ところで、私が最近危惧しているのは「食育」ブームです。
食育もまた産業支援のためのものでなければいいのですが。
食育に関しては、いろいろと思うことが多いのですが、いつかまた書きたいと思います。
食育は文化にかかわることだからです。

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2007/08/17

■戦後レジームと整合しなかった政治の仕組み

昨日の続きです。

「戦後レジーム」という言葉に込められている仕組みについて、考えてみたいと思います。
おそらく安倍首相が述べているのは、こちらのほうに重点があるような気がします。
多くの場合、体制は仕組みと考えられがちですから。
しかし、いうまでもなく、レジームの本質は理念であって、仕組みではありません。
ただし、レジームの理念は現実の仕組みによって実体化されます。

その意味では、戦後レジームは必ずしも「国民主権」「人権尊重」「戦争放棄」ではなかったかもしれません。
そこで、話はややこしくなります。
理念と整合していなかった「戦後レジーム」を正す、という考えが成り立つからです。
もちろん、安倍首相の提唱する「戦後レジームからの脱却」は、これとは正反対の考えです。

実はそこにこそ問題があります。
全く正反対のことが同じ言葉に含意されるために、本来的な意味での議論も合意も成り立たなくなり、同床異夢のままに思わぬ結果に到達することがあるのです。
これが、民主主義の落とし穴の一つです。
改憲も靖国も、民営化も年金もすべてそうしたなかで、問題の本質は何も問われないままに誘導されてしまうこともあるのです。
気がついた時には、多分、後の祭りというわけです。

どうも本論に入る前の話がいつも長すぎます。
すみません。

話を戻せば、仕組みと理念が不整合であれば必ずいつか破綻しますが、その破綻を回避するためには、仕組みを見直すか、理念を見直すか、です。
多くの場合、仕組みは見直されることはありません。
仕組みは段階的に育っていくものであり、育つ過程で膨大なしがらみ(利得構造)を形成していくからです。
しかも、多くの人は理念よりも現実から考えることが好きですから、理念など語っても関心を持ちません。
そこで学者や評論家、さらにはマスコミが、理念を現実の視点から小賢しく「解釈」します。
宇井純さんが生前に指摘していたように、解釈する人は例外なく現実主義者です。理念も良心もほとんどありません。いや、あったらそんなことはできません。

ところで、日本の戦後レジームの理念を実現するために、どのような仕組みがつくられてきたでしょうか。
コアになったのは、官僚主導の中央集権の仕組みと経済と政治が一緒になっての経済成長優先の仕組みです。
その仕組みは、実は「戦前のレジーム」とほぼ同じです。アメリカ型の金銭経済優先の考えが新たに追加されましたが、それはレジームの変革にはつながりませんでした。
金銭経済優先主義は、格差や環境破壊を必然的に帰結しますが、それは経済成長路線を支える条件でもありました。
幸いにまだ「対外的な侵略」や「戦争」にはたどりついていませんが、その方向に急速に向かっています。

戦前と違う仕組みはなかったのでしょうか。
多様性が許容される代議制がつくられ、新しい国家理念を教える学校教育もはじまりました。しかし、いずれも徐々に「戦前の理念」に侵食され、形骸化されました。
それを加速したのが、金銭経済優先の競争文化です。

安倍首相が脱却を目指す「戦後レジーム」の仕組みとなんでしょうか。
それはもう少し書き込まないと行きつけません。
また「つづき」にさせてください。

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2007/08/16

■戦後レジームからの脱却の意味すること

河野洋平衆院議長が、全国戦没者追悼式で「海外での武力行使を自ら禁じた日本国憲法に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んできた」と語りました。
安倍首相は、「美しい国」を目指して、「戦後レジームからの脱却」を標榜しています。
河野議長がいう「新しいレジーム」と阿部首相のいう「戦後レジーム」は同じものなのでしょうか。
これまでの2人の言動を踏まえて考えれば、同じものだと考えるのがいいでしょう。
そう考えていくと、安倍首相が壊そうとしているレジームが見えてきます。

レジームとは「体制」という意味ですが、体制は「理念」と具体的な「仕組み」から成り立っています。
戦後レジームの理念は日本国憲法です。
具体的にいえば、国民主権、基本的人権の尊重、そして戦争放棄です。
それを否定する動きが、この数年高まっているわけですが、「戦後レジームからの脱却」とは、そうした理念を否定し、憲法を変え、国民主権を骨抜きにして、基本的人権は抑圧し、国民を戦争に引き込もうと言うことです。
すでにそうした動きは、昨日書いた佐藤正久議員のようにかなり現実的な話になって来ています。
書きすぎだといわれるかもしれませんが、簡単に言えば、そういうことでしょう。
要するに、核兵器を使える国になりたいということです。
飛躍があるというかもしれませんが、素直に考えればそういうことではないかと思います。

ちょっと長くなりそうなので、今日はここまでにします。

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2007/08/15

■不戦の誓いの出発点は憲法9条の堅持でしょう

62回目の終戦記念日です。
広島・長崎への原爆投下日は、おそらくだれもが意識し、意識させられますが、終戦記念日はあまり意識することもなく過ごしがちです。
知人が今日を「日本建国記念日」にしようという提案をメーリングリストで流してきましたが、今日が祝日になっていないのは確かに不思議です。
8月15日は、私たちの新しい歴史の出発点ですから、もっとしっかりと意識する仕組みがあっていいように思います。

今日の全国戦没者追悼式で、安部首相は「不戦の誓いを堅持」と表明したと報道されています。
この表現は、小泉前首相と同じものだそうですが、憲法9条を変えて戦争の世界に復帰しようということを実践している人が唱える「不戦の誓い」とは何なのか、私には理解しがたいことです。
言葉遊びはやめて、具体的に不戦への行動を起してほしいものです。
その出発点は、不戦を誓い、不戦の仕組みを明言した日本国憲法9条を堅持することの明言です。
そして、核の傘に守られるような国策の見直しです。
核の傘に守られながら、ノーモア広島を叫ぶことには大きな違和感があります。
その発想は、久間前防衛相の「しょうがない」発想と同じなのではないかと思います。
さらに、私自身は脱原子力発電もビジョンとして掲げるべきだと思います。
核兵器と原子力発電は、結局は同じものです。

戦争終結から62年。
「終戦記念日」をいつまで続けられるのか、不安です。

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■シビリアン・コントロールの歯止めの喪失-佐藤正久議員の場合

我孫子で、地に足つけた平和活動に取り組んでいる豊田さんから教えてもらったのですが、参議院議員になった元サマワ先遣隊長、佐藤正久さんが集団的自衛権の論議の中で、イラク在留中に、国民を騙して戦争状態をつくりだすつもりだったとTBSの報道の中で発言していたそうです。
そのことはTBSニュースのサイトに紹介されています
この記事は時間がたつと削除されるでしょうから、一部を引用再録しておきます。

イラクに派遣された陸上自衛隊の指揮官だった佐藤正久氏は、当時現場では、事実上の「駆けつけ警護」を行う考えだったことをJNNの取材に対して明かしました。
(中略)
佐藤氏は、もしオランダ軍が攻撃を受ければ、「情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれる」という状況を作り出すことで、憲法に違反しない形で警護するつもりだったといいます。
「巻き込まれない限りは正当防衛・緊急避難の状況は作れませんから。目の前で苦しんでいる仲間がいる。普通に考えて手をさしのべるべきだという時は(警護に)行ったと思うんですけどね。その代わり、日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろうと」(佐藤正久)
「駆けつけ警護」とは、味方である他国の軍隊が攻撃された場合、駆けつけて応戦することですが、正当防衛を超えるとして憲法違反とされています。しかし、集団的自衛権に関する政府の有識者会議では、それを認めようという議論になっているようです。
佐藤正久さんはテレビでのニュースショーなどにも参加してきていますが、その発言にはかなりの危うさを感じます。戦争の現場を知っているといいますが、世界を知らなすぎるように思います。最近は、そういう人も増えました。

テロ対策特別措置法が問題になっています。
小沢さんの強い「ノー」の表明で、この問題がようやくみんなの関心を呼び起こしそうですし、その実態があぶりだされそうです。
アフガンやイラクで、自衛隊の人たちが何をしているか、私たちはほとんど知りません。
テロ対策といいますが、テロリストは誰なのかの議論すらあります。
見方によっては、私たち自身がテロリストに加担しているということもありえます。

シビリアン・コントロールの出発点は、実態を国民が知ることです。
そうしないと現場しか知らない人が独走してしまいかねません。
太平洋戦争もベトナム戦争も、そうでした。
国民の知らないうちに、戦争は始まるのです。
シビリアン・コントロールを壊すのは簡単なのです。

それにしても、小泉郵政選挙以来、おかしな人が国会議員になりだしました。
選挙に行かなかった丸川さん、国民を騙して戦争状態をつくりだすことに何の違和感ももたない軍人、こんな人たちが国会に紛れ込み出したのです。
国会はもはや権威を失墜しています。
平和憲法を捨てて、戦争に向けて動き出そうとしています。

ちょっと過剰反応でしょうか。
しかし、日本もドイツも、そうやって戦争に突入して行ったのです。
今日は終戦記念日です。虚しさで元気が出ませんが。

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2007/08/14

■家事やボランティア活動と賃仕事

女房が病気になったおかげで、家事、あるいは仕事の意味のようなものを考える機会をもらいました。これまでも頭ではいろいろと考えてはいたのですが、実際に家事の一部を主体的にやってみると、また思いも深まります。
それにしても、私の人生は女房による「家事」に支えられてきたことがよくわかりました。
言い換えれば、資本主義経済は家事により支えられてきたにもかかわらずに、その「仕事」はシャドーワークでしかなかったわけです。

仕事というと最近では「賃仕事」、つまり対価をもらう仕事をイメージしがちです。
しかし、人類の長い歴史のなかでは、賃仕事は仕事の中のほんの一部だったはずです。
対価を貰う仕事が主流になったのは、20世紀になってからかもしれません。
それは「貨幣」の世界の広がりとつながっています。
世界が貨幣によって支配されだすとともに、仕事の効用は貨幣で測られるようになってしまいました。
商品に対する「貨幣の王権」(プルードン)は、仕事に対しても支配力を広げていったのです。
貨幣の呪縛から脱却しない限り、私たちは仕事の主役にはなれず、主体的に生きる人生は送れないのです。
お金は主体性を得るためのものではなく、主体性を奪うものです。

大切なのは、仕事の「貨幣的対価」ではなく、仕事の「生活(社会)への効用(役立ち)」です。
貨幣経済の発展と共に、仕事の中心は賃仕事に移ってしまったわけですが、賃仕事を支えているのは、私たちの暮らしを支えている、さまざまな、貨幣的対価のない「仕事」のおかげです。
とりわけ「日常生活」を支える家事が、私の仕事をどれだけ支えてきたか、女房が家事を出来なくなってから、痛感させられています。企業での仕事や自分のビジネス活動に専念できたのは、家庭という生活基盤があったればこそであり、モチベーションの源泉がしっかりしていたからです。
その視点に立てば、労働対価の算定方法は基本から考え直すべきでしょう。

やってみるとわかりますが、「家事」は大変です。
際限がなく、日々、新しく、創造的でもあれば、想像的でもあります。
私はこれまで家事をほとんどすべて女房や娘に依存してきました。
そのありがたみを、自分で家事の一部をやり出してようやく理解できてきました。
私がこれまでやってきた仕事などは、家事に比べれば瑣末で簡単なものでしかないのかもしれません。仕事は誰でもできますが、家事はそうはいきません。

みなさんも企業などで社会的価値ある仕事に取り組まれていると思いますが、時にそれを支えているさまざまな「仕事」に思いを馳せることをお勧めします。
そうすれば、家事やボランティアへの評価も変わるかもしれません。
地域活動や広域のボランティア活動は、賃仕事の合間に社会還元的発想で考えるべきものではなく、そうした活動こそが賃仕事を支えていることが実感できるかもしれません。

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2007/08/12

■政府の危機と国家の危機

参議院選挙での自民大敗により、自民党および政府はかなりの危機感を持ってきているようです。
おそらく危機感を持っていないのは、裸の王様の阿部首相だけかもしれません。
首相続投の是非が相変わらずテレビなどで議論されていますが、これは是非を問うべき問題ではありません。
まともな常識を持っている人ならば、答えはおのずと明快です。
「続投」を肯定する国民がかなりの数いることは驚きですが、これがまさに日本の「民度」でもあります。

昨年亡くなった宇井純さんは、自主講座公害原論で、「政府は、公害の反対を封ずるための町村合併を進めたが、自治体の合併を許すほど、われわれ一人一人の自治権力意識というのは弱体だった」と語っていましたが、まさに日本人の自治意識(政治意識)や主体性は、いまや大正デモクラシー以前に戻ってしまったのかもしれません。
政府による、見事な国民教育の結果であり、パンとサーカス政策の成果です。
平成の市町村合併は、見事にまた国民の自治意識を奪い取りました。

今回の選挙結果は、国民の主体性あるいは自治意識(政治意識)の復活なのでしょうか。
そう思いたいところですが、そうも思えないのが残念です。
国民のなかに「風」は起こりそうもないからです。

ところで、自民党の危機と政府の危機とは別のものです。
そして、政府の危機と国家の危機もまた、別のものです。
それは少し考えたらわかることです。
国家をだめにした政府は私たちも体験したことがありますし、今なお世界各地には国家を食い物にしている政府は少なくありません。
極端にいえば、政府と国民の利害は対立することの方が、まだ多いかもしれません。

いまの政府の混乱は決して国家の混乱ではありません。
むしろ「国家」と「政府」を混同して考えることになじんでしまっている風潮を見直す好機かもしれません。
しかし、そうはいうものの、政府の混乱が国家の危機につながることがないとはいえません。
政府の混乱は、国際関係においては政治をとめるからです。

政府の危機には、「殿、ご乱心」と馬鹿殿に諫言する志が出ましたが、国家の危機にはだれが声を上げるのでしょうか。

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2007/08/11

■クールビズとノーネクタイ

民主党の西岡議員が、国会での審議でのネクタイ着用を提案したというニュースが報道されていました。この提案は評判がよろしくないようですが、私はそもそもクールビズなどという発想には大反対ですので、拍手を送りたいと思います。
ネクタイを絶対しろとは言いませんが、もう少し緊張感を持って国会の審議をしてほしいものです。
国会議員の多くは、国会とは昼寝の場所と考えているようですから(国会中継を見ていて、いつもそう感じます)、たしかにネクタイはパジャマにはふさわしいとはいえず、邪魔なのはわかりますが、国会とは何なのかをもう少し考えてほしいものです。
「衿を正さずに」国会議員としての仕事ができないことは、さまざまな議員不祥事が証明しています。

この提案に対して、テレビのワイドショーでは、民主党は温暖化防止に反対なのかなどと馬鹿なコメントをわけのわからないタレントやキャスターに発言させていますが、ネクタイと温暖化防止とは全くと言っていいほど関係がありません。
それよりも、無意味な番組を作って放映しているほうが、よほど温暖化に役立っていることを反省してほしいですが、自らの生き方も含めて、そう発言している人ほど温暖化防止行為などとっていないはずです。

それにノーネクタイとクールビズは関係はありますが、本来は全く別のものです。
なぜ短絡的にクールビズとノーネクタイをつなげるのか、私には理解できません。
環境問題に取り組むのであれば、もう少し真剣に取り組むべきですし、そもそも審議の仕方それ自体も変えればいいでしょう。
ネクタイをはずせば涼しくなるわけでもなく、むしろ大事なものを失うような気がします。

服装は意識に大きな影響を与えます。
最近、国会議員の意識や規律がおかしくなっているのは、ネクタイをはずしたからではないかとさえ思います。

私の考えは古いでしょうか。

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2007/08/07

■憲法と政党マニフェスト

選挙後の参議院議員を対象とした朝日新聞と東京大学の調査によると、改憲賛成派は53%に減少したそうです。憲法9条改正に関して、賛成31%、反対50%だそうです。
選挙前とは状況は大きく変わっています。憲法改定という大きな問題への意識が、こうも簡単に変わってしまう国会議員への不信感もありますが、これでひとまずは戦争を目指す国家への道は少し止められそうです。
しかし本当にホッとしていいのかどうか。

憲法は国家の基本理念やビジョンを示すものであり、国家のアイデンティティに関わるものです。
日本の憲法は、政治家と財界と憲法解釈学者によってずたずたにされてしまっていますが、そこに込められたコアバリューは明確です。
それが9条だと思いますが、そうした国家のコアバリューへの真剣なマニフェストを表明する政党が少ないのが残念です。
昨今のマニフェスト論議は、どうも実現性とか評価可能性とか具体性に関心が移っていますが、政党のマニフェストはやはり国家の基本である憲法との関係をもっと重視するとともに、日本のビジョンや国家理念を明確に謳うべきではないかと思います。
政党のマニフェストと個人のマニフェストは次元の違う話だと思いますが、それが混同されているのが現状です。
今回もまた、マニフェスト選挙だったという人も少なくありませんが、私には自民党も民主党も日本のビジョンやコアバリューに関して明確に宣言しているようには思えません。
彼らが考える「日本の形」の違いも見えてきません。
それは両党とも、結局は現在の憲法や平和の理念に共感しておらず、経済に従属した市場主義的政府を目指しているからです。
形の上では二大政党のスタイルをとっていますが、結局は「双子の兄弟」の内輪の権力争いでしかないのです。

政党政治を続けるのであれば、政党はもっとしっかりした国家のアイデンティティやビジョン、理念を明確に打ち出すべきではないでしょうか。
それがあいまいな政党のマニフェストは全く意味がないような気がします。
政界再編成は、権力再編成であってはなりません。
ビジョンと理念を基準に、政党そのものの再編成をすべきではないかと思います。

広島の平和式典に安倍首相が参列していることに、やはり私にはどうしても違和感があります。

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2007/08/05

■病気との対峙といのちへの眼差し

昨日、治療と治癒に言及しました。
以前も一度書きましたが、もう一度書きます。
ある人から「大きな病院の医師は治療の対象にしか興味を持たない」という言葉を聞いたからです。

治療の対象は「病気」です。治癒の対象は「人間」です。
そして、病気の治療が病人を治癒するという前提の中で、治療方法の解明が医学の進歩と考えられています。そうでしょうか。
昨日紹介した緩和ケア科での体験とは対極の、もう一つの体験を先週したのです。

先週、近くの訪問診療に取り組んでいるクリニックを訪問しました。
女房のがんが再発して以来、国立病院にかかっていましたが、そこでの関心は病気治療であって、ケアではないことがよくわかったので、治癒を支援してくれる医師を探したのです。そして在宅診療をしているクリニックの医師に出会えました。
そして迅速な対応をしてもらうことが出来ました。
医学への信頼を少し回復しつつあるとともに、私自身がいかに医療に無知だったかを思い知らされました。

私が当の病人であれば、その体験を克明に報告したいところですが、患者は女房ですので、勝手には報告できません。夫婦といえども意識は微妙に違うからです。
しかし、彼女の通院にはすべて同行し、医師の診察もほとんど体験させてもらいながら、現代の病院や医療体制の問題についてはいろいろと考えることがありました。
違和感や不信感もかなり蓄積されました。
もちろん個々の医師の熱心な仕事ぶりや病気を治そうとする熱意には感心することが多く、私たちも何回も病院の医師の献身的な行為に救われていますし、感謝もしています。とりわけ看護師たちの献身的な活動には頭が下がります。

しかし、そうだからこそ、正すべきことを正す必要があるという思いも高まっています。
基本が間違っていると、熱心に取り組めば取り組むほど、結果は逆に悪くなることもあるのです。もしかしたら、今の日本の病院はそういう状況に陥っているのではないかという気もします。ホリスティック医療の発想が欠落しています。
病院や医学の世界は、思い切ったパラダイム転換が必要なのかもしれません。

在宅診療を受けることになって、これまでのやり方とはかなり違うことを実感しました。
そこには「いのち」への眼差しがあるのです。
現在の大病院での外来診察とはまったくと言っていいほど違います。

「病気を診るな、病人を診よ」はヒポクラテス以来の治癒の基本です。
これは言い換えれば、治療ではなく治癒に心がけよ、ということではないかと思います。
治癒のために治療があるのであって、治療のために治癒があるわけではありません。

たとえばこういうことです。
がん治療は近代医学だけではまだ十分な対応はできない領域です。
ですから多くのがん患者は、サプリメントや民間療法に関心を持ちます。
病院に通いながらサプリメントを服用する人も少なくないでしょう。
しかしほとんどの病院ではいわゆる抗がん効果を表明しているサプリメントには否定的です。
私たちの場合、抗がん剤を飲む時にサプリメントは止めて下さいといわれました。理由は、何が効果があったか分からなくなるからだというのです。唖然としました。
もちろん副作用への心配も説明の中にありましたが。
患者にとっての関心は「何が効くか」ではなく「治癒されること」です。
何が効いたかはもちろん大切ですが、まずはよくなることです。
相乗効果でもいいのです。

厚生労働省の認可していないものは危険だから責任をもてないという論理も本当は成り立たない論理です。
薬害事件から明らかなように、認可したから危険性がないわけでもなく、認可したから効くともかぎりません。かつては抗がん剤と評価が高かった抗がん薬が、その後、効果がないことが判明した事例もあります。
そもそも抗がん効果の評価基準も極めてあいまいです。
このあたりは書き出すときりがないのですが、要するに抗がん剤と医薬品認可の下りていないサプリメントは、その効用や副作用において、所詮は連続しているのです。

エビデンスがないものは使えないと医師はいいます。この言葉もむなしい言葉です。
「科学」としての医療でのエビデンス(効用証拠)は、実際に効果があるかどうかとはほとんど無縁かもしれません。そのエビデンスの評価方法も極めてあいまいです。
短期間の病状回復でも効果ありとされるのです。
市販の怪しいサプリメントと大差はないのです。

治療には熱心に取り組むが、治癒にはあまり関心がない。
国立や大学などの病院の医師は、そうでないとやっていけないという話も聞きますが、患者の立場からは大きな違和感があります。
抗がん剤を飲むのをやめた患者は、医師には興味のない存在になるようです。
とても分かりやすい話ですが、どこかにおかしさがあるように思います。
そう思いませんか。

もちろん、そうでない医師も決して少なくはありません。
今回の指摘は、個人としての医師への批判ではなく、文化、仕組みとしての病院への問題提起です。
念のため。

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2007/08/04

■延命措置は希望されますか

書こうかどうか迷ったのですが、書くことにしました。
これは女房には内緒の記事です。

医師から「延命措置は希望されますか」と訊かれたら、みなさんはどうしますか。
仮の話ではなく、自分に可能性のある状況においてです。
これは、私の女房が最近受けた質問です。
女房は「希望しません」と答えました。
これだけだと何ということのない話で、どこにも問題がないように思えるかもしれません。
しかし、私は大きなショックを受けました。

国立病院の緩和ケア科にかかりだした最初の日の質問です。
緩和ケアは、いわゆる狭義のホスピスとは違うという認識で、いろいろと苦痛の緩和について相談しようと思っていた矢先です。
緩和には肉体的苦痛の緩和もありますが、患者にはそれ以外の悩みや相談事もあります。そうしたことは専門的な医師にはなかなか相談できませんので(相談に乗ってくれる医師は少ないです)、治療的見地からではなく、治癒的な見地で相談に乗ってもらえると思っていたのです。
症状を説明し、いろいろと相談を始めた時に、医師からその質問を受けました。
私も同席していましたが、突然だったので驚きました。
私の反応が少し良くなかったのか(私は感情を隠せないのです)、医師は、いざとなった場合のことも想定して、一応お聞きしておくのですと補足しました。
もしそうであれば、そう断ってから訊くべきです。
せめて信頼関係が芽生えてから質問してほしかったと思います。
がんの場合、患者も家族も微妙な精神状況なのです。
それをわかることが緩和ケアの出発点のような気がします。

たった一言に過剰反応ではないかといわれそうですが、そうした「一言」が重要なのです。
その一言で、医師や病院の評価をするつもりはありませんが、そうした一言で、病気が悪化することもあるのです。
そのことに気づいてほしいと思いますが、やはり自らがその立場にならなければわからないものかもしれません。

北九州市の生活保護の問題も、そうした一言が引き起こしたのかもしれません。
光市母子殺害事件の弁護団も同じかもしれません。

ところで「延命措置」とは何なのか。
これについてはまた書きたいと思いますが、この言葉には現在の医療観が象徴されているような気がしています。
医療の分野での「言葉」の見直しが必要ではないかと最近感じています。

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2007/08/03

■いのちの大切さと学びの面白さ

わが家の庭の南東の角にアズキナシの樹があります。そこはわが家の狭い庭では一番目に付く場所です。
植えてから5年、大きく育ったのですが、毎年アブラムシがたくさんつくのです。
アブラムシが樹液を吸ったアブラムシが出す甘い排液にアリが集まり、またアリの排液で樹木のみならず、周辺が真っ黒になります。鉢などもあつまってきます。時にカミキリなども来ます。そうして周辺の草木は大きな被害を受けて元気を無くします。
これが自然の流れなのでしょうが、庭木としては選定を間違ったようです。
大胆に剪定したり、防虫剤を使ったり、まわりの草花の種類を変えたり、女房と娘はいろいろ工夫して、何とか問題を解決しようと取り組んできました。
しかしうまくいきません。
植え替えも考えたのですが、樹が大きくなっているため場所がありません。
昨年、庭の花や樹木の手入れをしている娘からついに伐採の提案がありました。
しかし、私は生きた樹を切るのはしのびなく、たとえ1本の樹であろうと生きている樹は切りたくないと主張したのですが、現場を管理している娘はアズキナシ1本を犠牲にすれば、たくさんの草花が生き生きしてくるのだから、私の考えこそ、いのちを大切にしていないというのです。
女房も娘も、枯れかかった花でも大事の育てて元気にします。
彼女たちの手にかかると、廃棄寸前の処分品がわが家では大きく育っていきます。そのおかげで、わが家の庭にはたくさんの花があります。
その2人からの2回目の提案なので今回は私も賛同しました。
2年間、アズキナシを守る努力をしてきましたので、アズキナシもゆるしてくれるだろうと女房が言いました。
それで、今日、塩で清めてお祈りし、アズキナシを伐採させてもらいました。
庭木1本伐るだけでも本当に心が痛みます。
こうした思いは、しばらく前までは日本人であれば、だれでもが持っていた感情だったように思います。
そうした文化や「いのち」への畏敬の念は自然とのふれあいの中で、私たち世代は学んできました。
私が勉強好きになったのは、小学4年の春に学外授業で学校からかなり離れたところにある沼に自然観察にいったおかげです。そこでいのちのすばらしさを学んだからです。今でも勉強は大好きです。新しい気づきにはわくわくします。
私にとっての勉強は教室で先生から教わるものではありません。
自然とのふれあい、情報(書物)とのふれあいのなかで、自分で気づいていくものでした。
いまの学校教育がうまくいかないのは、教室に閉じ込めてしまい、教師が教える仕組みだからではないかと思います。
自然や社会のなかで学ぶ仕組みをつくれば、学ぶことは面白く魅力的になります。
それに、学びはいのちや暮らしにつながっていないと面白くはありません。
考古学も天文学も、すべて私たちの日々の暮らしやいのちにつながっているのです。

今日、アズキナシに感謝をしながら伐採して、子どものころのわくわくするような学びを思い出しました。
ちなみにわが家には沢蟹もカブトムシも放し飼いにしています。
もっとも放した後、見かけることはないので、いまはどこかに出かけているかもしれないのですが。

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2007/08/02

■テレビキャスターの皆さん、バラバラに疑問を呈していないで、一緒に安倍退陣への風を起こしてください

朝日新聞に自民党の地方幹部の意見調査結果が出ていました。
7割が首相続投だそうです。
一方で、安倍首相に対しては「政治家として未熟」とか「時代遅れの手法」とか、批判は多いそうです。
昨日書いた「中高年女性現象」は自民党地方幹部にも蔓延しています。自分のことしか考えていないような気がします。政治家ではなく、政治屋です。

赤城大臣辞任には、何をいまさらという意見が多いです。
選挙が終わった後では無意味だという議員も少なくありません。
舛添議員もそう話していましたが、なんだか哀しくなります。
みんなの頭にあるのは「選挙」だけなのです。
選挙のために選挙前には行動も起こさずに、よく言うねという気がします。
選挙のために辞任が問題にされていたのかということです。
舛添さんも政治屋でしかないことが露呈されました。残念です。
発想の根本が間違っているように思います。

続投支持者には安倍首相に代わる人がいないという人もいます。
これは安倍首相に対する最大の評価です。発言者はそれに気づいていません。
なぜ「代わる人」がいないかといえば、その評価基準が私利私欲にあるからです。
安倍首相よりも首相にふさわしい人がいないということの意味をわかっているのでしょうか。
わかっていないのはお前だといわれそうですが、たぶんそういう人と私とは拠って立つ場が違うのです。いや政治の捉え方が違うのです。

テレビで石破さんが首相は辞めるべきだと発言していましたが、これは私には理解できる説明でした。こういう人も自民党にはまだいます。彼らがなぜ離党しないのか不思議ですが。

選挙とは何なのか。
選挙結果もわからないままに、続投を決めるというのはどういう意味を持つのか。
青木さんと野中さんが進化させた、「私物化された密室政治」が相変わらず続いているようです。
どうして誰も、その暴走をとめられないのでしょうか。
いや、どうして一緒になって暴走しているのでしょうか。

政治家がだめなら、政治に関わる評論家やマスコミで影響力を持つキャスターたちが立ち上がっても良いように思います。
個々バラバラに「批判」しているだけでなく、国民に呼びかけて、首相更迭の風を起こすべきではないでしょうか。
国民が安倍政権に「ノー」といった事実をこのまま放置していたら、日本の政治はますますおかしくなっていくでしょう。
そうならないあために、テレビキャスターができることはたくさんあります。
信念があればですが。

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2007/08/01

■子どもたちを戦場に送るために狂奔する中高年女性たち

予め断っておきますが、非常識な暴論を書きます。
小泉前首相や安倍首相に握手を求め、声援を送っている中高年の女性たちから参政権を剥奪するのはどうでしょうか。

銀座の街頭で安倍続投の是非を問うという番組をテレビでやっていました。
結果は100人中、44人が続投支持でした。
テレビで観る限りでは、中高年の女性が多いようでした。
彼らは息子や孫を戦場に送りたいのでしょうか。
韓国のスターを追いかけたり、ブランドを買いまくったりする程度であれば同情もできますが、ここまでくると腹がたちます。
男性が粉骨砕身して働いている一方で、彼女たちは家庭も育てずに壊してきたのではないかと怒りを禁じえません。
彼女たちから参政権を剥奪するのはどうでしょう。

と昨日は思っていたのですが、今朝の朝日新聞に、電話での全国世論調査(電話)の結果がでていました。
40%の人が続投を支持しているというのです。
しかし不思議なのは、安倍内閣の支持率は26%だというのです。
安倍内閣不支持だが安倍続投は支持するというのはどう考えてもおかしな話です。
まともな頭の持ち主ではないでしょう。
日本人がそこまで愚かになったとは思いたくないので、この調査の信頼性に疑問をもちますが、それはともかく、続投支持に関して言えば、テレビでみた中高年女性の意見とこの調査結果はそう変わらないのです。
ということは、参政権を剥奪するのは女性だけではなく、全国民から剥奪すべきかもしれません。
そう思って、この暴論は書き込みをやめようと思ったのですが、また考えが変わりました。
もしかしたら電話調査に出たのは、テレビと同じ、中高年女性が多かったのかもしれません。あるいは意識と生活において、中高年女性と同じ閑暇な男性たちや若い女性たちと言ってもいいでしょう。
いずれにしろ最近流行の電話調査なるものに疑問を感じだしたのです。
世論調査などと改まって新聞に書かれると、なにやら信用してしまいますが、要するに銀座の街頭調査と同じレベルなのではないか。そんな気がしてきました。
「全国世論調査」などという表現を使ってほしくないと思います。
不当表示ではないでしょうか。

社会を壊したのは、企業に「滅私奉公」してきた私たち男性たちだという思いが私には強くありましたが、家庭を放棄した女性たちの生き方も大きな問題です。
最近の女性政治家たちを見ていて、そう思うようになってきました。

3年間も投票にも行かなかった人がなぜ政治家になれるのか。
彼女は政治をどう思っているのでしょうか。
少なくとも丸川さんは立候補を辞退すべきですし、自民党は公認を取り消すべきです。
それこそがけじめです。
こんな無責任な不心得ものが政治家になり続けているのが、小泉・安倍政権時代なのです。
赤城問題と丸川問題は同じ話ではないでしょうか。
それに、丸川さんには恥というものはないのでしょうか。
彼女を支援する女性政治家も同類です。類は類を呼ぶのがよくわかります。
彼らこそ、中高年女性の象徴のような気がします。
彼らの参政権も剥奪したいものです。年齢はともかく、その言動はまさに昨今の中高年世代と同じです。

中高年女性たちの選挙権を剥奪したら、小泉・安倍時代は終わるのではないでしょうか。
そして子どもたちを戦場に送るために狂奔する政治は終わるのではないでしょうか。

日本の女性たちは変質してしまいました。
男性たちが変えたのでしょうか。
いや、そうした女性たちが男性を変えたに違いないと、私はひそかに思っています。
みなさんは大丈夫ですか。
女性は怖い存在です。はい。

なお、この記事に対する反論には一切回答はしません。
ブログ上も個人メールにもです。
なにしろ暴論なのですから。

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