■平和は輸出できません
昨日書いたテロ特措法に関して、アフガンとイラクは違うと言う議論があります。
国連との関係で言えば、確かに違います。
しかし、もっと大きな枠組みで言えば、同じ話です。
イラクでもアフガンでも相変わらず死者が続出しています。。
いずれの場合も、日本は国際平和や人道支援を理由に関わっています。
しかし本当に関わることが平和のためなのか。
いまではもう昔の話ですが、イバン・イリイチが日本で行った講演で、次のように述べていたことを思い出します。
ある文化から他の文化へ平和を輸出することは不可能である。もし輸出したならば、その独自の平和は枯れてしまう。したがって平和の輸出なるものが行われたとしたら、それは実際には戦争でしかない。(「暴力としての開発」『暴力と平和』1982所収)平和に関する捉え方はいろいろありますが、平和とは本来、まじめに生きている人たちが自分たちの文化のなかで気持ち良く暮らし続けること、と考えていいでしょう。
そうした平和概念は、近代工業の勃興に伴い大きく変質しだすわけですが、1949年のトルーマン演説によって、加速的に変質しました。
経済成長志向に基づいた「開発」戦略が世界の主流になってしまうのです。
かつてキリスト教徒が宣教という侵略行為を行ったのと同じ発想で、資本主義経済が世界を「豊か」に「開発」しだしたのです。
そして、今や平和は開発によって達成されるという通念ができあがったとイリイチはいいます。
そうした平和を彼は「パックス・エコノミカ」と呼びますが、まさにそのパックス・エコノミカが古来の「民衆の平和」を壊してきたというのがイリイチの考えです。
この視点で、20世紀を振り返ると、まさに20世紀は「開発の世紀」であると同時に、「戦争の世紀」だったことの意味がよくわかります。
そして、そうした展望の中で、テロ対策やアフガンやイラクへの関わりを考えると、平和憲法を手に入れた日本の役割は、もう一つの選択があるのではないかと思われます。
「平和」という言葉は実に多義的な言葉なのです。
テロ特措法のもつ意味もまた、決して一義ではありません。
ちなみに、テロ特措法の延長と経済成長重視政策とは深くつながっているわけです。
イバン・イリイチの「暴力としての開発」は、ぜひ多くの人たちに読んでほしい論文です。
特に、いま「平和活動」に取り組んでいる人たちに、です。
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