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2007/08/03

■いのちの大切さと学びの面白さ

わが家の庭の南東の角にアズキナシの樹があります。そこはわが家の狭い庭では一番目に付く場所です。
植えてから5年、大きく育ったのですが、毎年アブラムシがたくさんつくのです。
アブラムシが樹液を吸ったアブラムシが出す甘い排液にアリが集まり、またアリの排液で樹木のみならず、周辺が真っ黒になります。鉢などもあつまってきます。時にカミキリなども来ます。そうして周辺の草木は大きな被害を受けて元気を無くします。
これが自然の流れなのでしょうが、庭木としては選定を間違ったようです。
大胆に剪定したり、防虫剤を使ったり、まわりの草花の種類を変えたり、女房と娘はいろいろ工夫して、何とか問題を解決しようと取り組んできました。
しかしうまくいきません。
植え替えも考えたのですが、樹が大きくなっているため場所がありません。
昨年、庭の花や樹木の手入れをしている娘からついに伐採の提案がありました。
しかし、私は生きた樹を切るのはしのびなく、たとえ1本の樹であろうと生きている樹は切りたくないと主張したのですが、現場を管理している娘はアズキナシ1本を犠牲にすれば、たくさんの草花が生き生きしてくるのだから、私の考えこそ、いのちを大切にしていないというのです。
女房も娘も、枯れかかった花でも大事の育てて元気にします。
彼女たちの手にかかると、廃棄寸前の処分品がわが家では大きく育っていきます。そのおかげで、わが家の庭にはたくさんの花があります。
その2人からの2回目の提案なので今回は私も賛同しました。
2年間、アズキナシを守る努力をしてきましたので、アズキナシもゆるしてくれるだろうと女房が言いました。
それで、今日、塩で清めてお祈りし、アズキナシを伐採させてもらいました。
庭木1本伐るだけでも本当に心が痛みます。
こうした思いは、しばらく前までは日本人であれば、だれでもが持っていた感情だったように思います。
そうした文化や「いのち」への畏敬の念は自然とのふれあいの中で、私たち世代は学んできました。
私が勉強好きになったのは、小学4年の春に学外授業で学校からかなり離れたところにある沼に自然観察にいったおかげです。そこでいのちのすばらしさを学んだからです。今でも勉強は大好きです。新しい気づきにはわくわくします。
私にとっての勉強は教室で先生から教わるものではありません。
自然とのふれあい、情報(書物)とのふれあいのなかで、自分で気づいていくものでした。
いまの学校教育がうまくいかないのは、教室に閉じ込めてしまい、教師が教える仕組みだからではないかと思います。
自然や社会のなかで学ぶ仕組みをつくれば、学ぶことは面白く魅力的になります。
それに、学びはいのちや暮らしにつながっていないと面白くはありません。
考古学も天文学も、すべて私たちの日々の暮らしやいのちにつながっているのです。

今日、アズキナシに感謝をしながら伐採して、子どものころのわくわくするような学びを思い出しました。
ちなみにわが家には沢蟹もカブトムシも放し飼いにしています。
もっとも放した後、見かけることはないので、いまはどこかに出かけているかもしれないのですが。

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