■男女共同参画社会と男女役割分担社会
昨日引用したイリイチの小論を引っ張り出して改めて読み直しました。
全く記憶に残っていなかった、次の文章に出会いました。
我が意を得たりという気がしました。
ちょうど数日前に書いた賃労働にもつながる話です。
社会にとって何が必要な仕事なのかということは、それぞれの文化が決定することであり、それぞれの社会によって異なる。また、どの仕事を男の仕事とし、どの仕事を女の仕事とするかについても、それぞれの社会ごとにユニークなパターンがある。(「暴力としての開発」『暴力と平和』1982所収)ところが、資本主義経済は、男女の役割分担に基づく仕事という発想を否定し、「労働の中性化」(イリイチ)を推し進め、表情のない貸金労働を仕事の主流にしてしまったのです。
そして、仕事の価値は、生活や社会の維持の視点からではなく、経済的な視点から評価されるようになってしまいました。
しかも、それが男性に有利に仕組まれたために、それまで共存してきた男女間に競争を持ち込んだとイリイチはいいます。
私が会社に勤めていたころ、「お茶汲み」は女子社員の仕事なのか、と言う議論が話題でした。
「お茶汲み」はもう死語になっただろうなと思ってネット検索してみたら、なんと今もなお問題になっているようです。
会社時代、私は、「お茶汲み」の仕事と経営戦略スタッフだった私の仕事と比べたら、「お茶汲み」のほうが大きな価値を持っていると思っていました。
職場の女性社員にもそう話していましたが、だれも賛成してくれませんでした。
しかし、会社の長期計画をたてたり、事業開発に取り組んだりする私の仕事よりも、人と人をつなげたり、人の気持ちを幸せにすることにつながる「お茶」を用意する仕事のほうが価値があると考えたのです。
それに仕事としても「奥の深さ」がありそうですし。
しかし、それはみんなには理解されないことでした。
なぜそんな「当たり前のこと」が理解されないのか、私は不満でしたが、そうしたことがたくさんありました。
企業を辞めたいまも、たくさんあります。
そのひとつが、男女共同参画の動きです。
以前も書きましたが、私は昨今の男女共同参画の動きには大きな違和感を持っています。
もちろんフェミニズムにも、です。
頑迷固陋な女性蔑視の人間のように誤解されそうですが、男女共同社会などという発想は、私にはそれこそ人間蔑視の象徴のような発想なのです。
なぜ私がそう思っているのか、イリイチはとても説得力を持って語ってくれています。
そう思いませんか。
大きなところでおかしな発想は、小さなところで正しければ正しいほど、おかしなことになるのです。
男女共同参画と発想は、参画に喜びを感ずるほどに自らを卑下している「臣民の発想」ではないかと思います。
地に足つけて主体的に生きている人たちは、しっかりと男女役割分担しています。
テレビの「鶴瓶の家族に乾杯」をみれば、そのことがよくわかります。
それに比べて、たとえば政治の世界の女性たちの動きを見れば、男女共同参画社会の本質が垣間見えてきます。小池議員は、そのことを明らかにしてくれているような気がします。
そろそろ男女共同参画などという侮蔑的な発想から自由になりませんか。
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