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2007/08/05

■病気との対峙といのちへの眼差し

昨日、治療と治癒に言及しました。
以前も一度書きましたが、もう一度書きます。
ある人から「大きな病院の医師は治療の対象にしか興味を持たない」という言葉を聞いたからです。

治療の対象は「病気」です。治癒の対象は「人間」です。
そして、病気の治療が病人を治癒するという前提の中で、治療方法の解明が医学の進歩と考えられています。そうでしょうか。
昨日紹介した緩和ケア科での体験とは対極の、もう一つの体験を先週したのです。

先週、近くの訪問診療に取り組んでいるクリニックを訪問しました。
女房のがんが再発して以来、国立病院にかかっていましたが、そこでの関心は病気治療であって、ケアではないことがよくわかったので、治癒を支援してくれる医師を探したのです。そして在宅診療をしているクリニックの医師に出会えました。
そして迅速な対応をしてもらうことが出来ました。
医学への信頼を少し回復しつつあるとともに、私自身がいかに医療に無知だったかを思い知らされました。

私が当の病人であれば、その体験を克明に報告したいところですが、患者は女房ですので、勝手には報告できません。夫婦といえども意識は微妙に違うからです。
しかし、彼女の通院にはすべて同行し、医師の診察もほとんど体験させてもらいながら、現代の病院や医療体制の問題についてはいろいろと考えることがありました。
違和感や不信感もかなり蓄積されました。
もちろん個々の医師の熱心な仕事ぶりや病気を治そうとする熱意には感心することが多く、私たちも何回も病院の医師の献身的な行為に救われていますし、感謝もしています。とりわけ看護師たちの献身的な活動には頭が下がります。

しかし、そうだからこそ、正すべきことを正す必要があるという思いも高まっています。
基本が間違っていると、熱心に取り組めば取り組むほど、結果は逆に悪くなることもあるのです。もしかしたら、今の日本の病院はそういう状況に陥っているのではないかという気もします。ホリスティック医療の発想が欠落しています。
病院や医学の世界は、思い切ったパラダイム転換が必要なのかもしれません。

在宅診療を受けることになって、これまでのやり方とはかなり違うことを実感しました。
そこには「いのち」への眼差しがあるのです。
現在の大病院での外来診察とはまったくと言っていいほど違います。

「病気を診るな、病人を診よ」はヒポクラテス以来の治癒の基本です。
これは言い換えれば、治療ではなく治癒に心がけよ、ということではないかと思います。
治癒のために治療があるのであって、治療のために治癒があるわけではありません。

たとえばこういうことです。
がん治療は近代医学だけではまだ十分な対応はできない領域です。
ですから多くのがん患者は、サプリメントや民間療法に関心を持ちます。
病院に通いながらサプリメントを服用する人も少なくないでしょう。
しかしほとんどの病院ではいわゆる抗がん効果を表明しているサプリメントには否定的です。
私たちの場合、抗がん剤を飲む時にサプリメントは止めて下さいといわれました。理由は、何が効果があったか分からなくなるからだというのです。唖然としました。
もちろん副作用への心配も説明の中にありましたが。
患者にとっての関心は「何が効くか」ではなく「治癒されること」です。
何が効いたかはもちろん大切ですが、まずはよくなることです。
相乗効果でもいいのです。

厚生労働省の認可していないものは危険だから責任をもてないという論理も本当は成り立たない論理です。
薬害事件から明らかなように、認可したから危険性がないわけでもなく、認可したから効くともかぎりません。かつては抗がん剤と評価が高かった抗がん薬が、その後、効果がないことが判明した事例もあります。
そもそも抗がん効果の評価基準も極めてあいまいです。
このあたりは書き出すときりがないのですが、要するに抗がん剤と医薬品認可の下りていないサプリメントは、その効用や副作用において、所詮は連続しているのです。

エビデンスがないものは使えないと医師はいいます。この言葉もむなしい言葉です。
「科学」としての医療でのエビデンス(効用証拠)は、実際に効果があるかどうかとはほとんど無縁かもしれません。そのエビデンスの評価方法も極めてあいまいです。
短期間の病状回復でも効果ありとされるのです。
市販の怪しいサプリメントと大差はないのです。

治療には熱心に取り組むが、治癒にはあまり関心がない。
国立や大学などの病院の医師は、そうでないとやっていけないという話も聞きますが、患者の立場からは大きな違和感があります。
抗がん剤を飲むのをやめた患者は、医師には興味のない存在になるようです。
とても分かりやすい話ですが、どこかにおかしさがあるように思います。
そう思いませんか。

もちろん、そうでない医師も決して少なくはありません。
今回の指摘は、個人としての医師への批判ではなく、文化、仕組みとしての病院への問題提起です。
念のため。

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コメント

私の父は、厚生労働省に難病指定されている病気でした。
症例数はがんよりも格段に少なく(それでも全国で軽症患者も含めて5千人ほどの患者がいるそうです)、治療法が確立されていないため、医師2人と相談しながら、対話をしながら治療を進めていました。
かかっていた病院の医師は、漢方などの東洋医学なども含めて、何でも試すことを勧めてくださいました。
我々が、患者のネットワークから得た手法を試してみたいと言えば、当該病院で可能な方法なら、自身も症例を取り寄せた後それを試みてくれましたし、民間療法的なことも全く否定せず、その試みのための病院の外出許可も快く出してくださいました。それどころか、医師の方からそうした手法をご紹介してくださることさえありました。
父は「何とか騙し騙しでよいから命を保たせられるとよい」と考えており、我々家族も病気と共存できればよいと考えておりました。何とか命を保たせている人の例があると聞いていたからです。
医師は、最後の手段としての対処療法を避け(対処療法は一時的に目に見える効果はあるけれど、それを繰り返すことにより治癒力を無くしてしまう方法でした)、あくまでも父の身体能力の再生に取り組んでくださいました。そうして、できるだけ家で過ごせるように計らってくださいました(その代わりちょくちょく緊急入院をしましたが)。
結局、父は(合併症で)亡くなってしまいましたが、医師ばかりでなく病院全体で父の病気と取り組んでくださっているということを感じていました。感謝しています。
自分のことばかりを書きましたが、治療法が全く確立していない病気と違い、がんの場合はそれなりに症例があるから、逆にその情報に囚われてしまうのかもしれませんね。

投稿: 小川 | 2007/08/06 21:34

小川さん
ありがとうございます。

そういう病院や医師もきっと少なくないのでしょうね。
私のわずかばかりの体験で、決め付けるのは好ましいことではないのかもしれません。
がんに関しても、そういう姿勢で、患者や家族と一緒になって取り組んでくれる病院や医師もいるのだと思います。
少なくとも、そうしたいと思っている医師は少なくないと思います。

しかし、なかなかそうできない仕組みが、今の医療制度にはあるのかもしれません。

私が最近、感じているのは、医師の不勉強さです。
専門分野に関しては、詳しく勉強し研究しているのだと思うのですが、隣接分野や周辺分野には予想以上に不勉強な気がします。
忙しくて、そういう分野にまで目がいかないのかもしれませんが、少なくとも関心は持ってほしいと、いつも思います。
そういう分を患者がむしろ学んでいくことで、コラボレーションできるような仕組みが出来れば、お互いに良いのではないかと思いますが、なかなかそれも難しそうですね。

医師や看護師が、本当に献身的に取り組んでいる実態を知るにつけ、医療制度のあり方を根本から見直す必要があるのではないかと思えてなりません。

投稿: 佐藤修 | 2007/08/11 18:51

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