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2007/08/14

■家事やボランティア活動と賃仕事

女房が病気になったおかげで、家事、あるいは仕事の意味のようなものを考える機会をもらいました。これまでも頭ではいろいろと考えてはいたのですが、実際に家事の一部を主体的にやってみると、また思いも深まります。
それにしても、私の人生は女房による「家事」に支えられてきたことがよくわかりました。
言い換えれば、資本主義経済は家事により支えられてきたにもかかわらずに、その「仕事」はシャドーワークでしかなかったわけです。

仕事というと最近では「賃仕事」、つまり対価をもらう仕事をイメージしがちです。
しかし、人類の長い歴史のなかでは、賃仕事は仕事の中のほんの一部だったはずです。
対価を貰う仕事が主流になったのは、20世紀になってからかもしれません。
それは「貨幣」の世界の広がりとつながっています。
世界が貨幣によって支配されだすとともに、仕事の効用は貨幣で測られるようになってしまいました。
商品に対する「貨幣の王権」(プルードン)は、仕事に対しても支配力を広げていったのです。
貨幣の呪縛から脱却しない限り、私たちは仕事の主役にはなれず、主体的に生きる人生は送れないのです。
お金は主体性を得るためのものではなく、主体性を奪うものです。

大切なのは、仕事の「貨幣的対価」ではなく、仕事の「生活(社会)への効用(役立ち)」です。
貨幣経済の発展と共に、仕事の中心は賃仕事に移ってしまったわけですが、賃仕事を支えているのは、私たちの暮らしを支えている、さまざまな、貨幣的対価のない「仕事」のおかげです。
とりわけ「日常生活」を支える家事が、私の仕事をどれだけ支えてきたか、女房が家事を出来なくなってから、痛感させられています。企業での仕事や自分のビジネス活動に専念できたのは、家庭という生活基盤があったればこそであり、モチベーションの源泉がしっかりしていたからです。
その視点に立てば、労働対価の算定方法は基本から考え直すべきでしょう。

やってみるとわかりますが、「家事」は大変です。
際限がなく、日々、新しく、創造的でもあれば、想像的でもあります。
私はこれまで家事をほとんどすべて女房や娘に依存してきました。
そのありがたみを、自分で家事の一部をやり出してようやく理解できてきました。
私がこれまでやってきた仕事などは、家事に比べれば瑣末で簡単なものでしかないのかもしれません。仕事は誰でもできますが、家事はそうはいきません。

みなさんも企業などで社会的価値ある仕事に取り組まれていると思いますが、時にそれを支えているさまざまな「仕事」に思いを馳せることをお勧めします。
そうすれば、家事やボランティアへの評価も変わるかもしれません。
地域活動や広域のボランティア活動は、賃仕事の合間に社会還元的発想で考えるべきものではなく、そうした活動こそが賃仕事を支えていることが実感できるかもしれません。

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