■節子への挽歌26:修は女性のことを本当に知らないのね
私は節子にほれ込んでいました。
最初からそうだったわけではありません。
節子への私のプロポーズの言葉は、「結婚でもしてみない」でした。
節子はなんと無責任なプロポーズだと思ったそうですが、不思議なことに当時の私のイメージからすると違和感がない言葉だったそうです。
誰でもよかったなどとはいいませんが、結婚とはそんなことだろうと思っていました。
私がプロポーズした時にも、節子には付き合っていた男性がいました。
しかし私にとってはそんなことはどうでもよく、プロポーズしたときにはただただ節子と一緒にいたかっただけです。
節子は私ほど私に惚れていたわけではありません。
惚れていたのは私です。
節子は押し切られて結婚してしまったのです。
その後、ずっと節子に惚れ続けていたわけでもありません。
まあいろいろとありましたし、節子は結婚を少しだけ後悔したこともありました。
親戚の反対を押し切っての結婚でしたから、私以外の人には言いませんでしたが。
私たちはどんな時も、お互いに正直でした。
私と節子が完全に世界をシェアしたのは、たぶん私が会社を辞めることを決めた頃です。
自分の納得できる生き方をするべきだと決めた私を、節子が何も言わずに全面的に支援してくれました。
2人で新しい世界を創りだそうと合意したのです。
専業主婦だった節子は苦労したはずです。
収入がなくなって、ただでさえ少なかった貯金がどんどんなくなっていくなかで、経済的にも不安が大きかっただろうと思います。
しかし、そんなことは一言も言いませんでした。
世間的な意味でのさまざまなものを捨てることに、節子は微塵も未練を持ちませんでしたし、私の身勝手な活動にも一言も異議を唱えませんでした。
退社した時に言ったのは、「25年間、家族のためにありがとう」という言葉でした。
以来、私にとって節子は「生きる意味」を与えてくれる人になりました。
そして私たちの人生は、まさに一つになったのです。
私たちほど信頼し合い、愛し合えた夫婦はないと自負しています。
まあ、それがなんだと言われそうですが。
節子が一番だと言葉にする私に、節子はよく、修は女性を知らなすぎるねと笑っていました。もっとすばらしい女性がたくさんいるのに、と。
そうかもしれません。
しかし、私には、節子のなかに、すべての女性がいたのです。
ですから、私はすべての女性を知っていると自負しています。
まあ、それがなんだと言われそうですが。
華厳の思想にある「一即多・多即一」のように、節子にはすべてがありました。
節子と話していると、世界が見えたのです。
そして自分自身も見えました。
節子は、私には鏡でもありました。
節子は私と一体でした。
ですから、節子がいなくなっても何も変わらないはずがなのですが、鏡に映る自分がいなくなってしまったことの意味はとても大きいです。
何も変わらないのに、何だかすべての存在感が急に希薄になってしまったのです。
いま、とても不思議な世界を、私は生きているような気がします。
時々、大きな不安が襲ってきます。
まあ、それがなんだと言われそうですが。
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