■ミャンマーの僧侶デモ鎮圧事件とパリ5月革命
ミャンマーの僧侶のデモはついに死者を出すまでになってしまいました。不幸なことです。
そのテレビを見ていて思い出したのが、フランスのパリ5月革命(1968年)でのドゴールの発言です。
NHKで放映された「五木寛之 仏教への旅」の第3回目に、パリ5月革命の回顧場面がありました。
学生運動から始まり、労働者によるゼネストなど、大きな民主化運動として広がったパリ5月革命は、世界に大きな影響を与えましたが、当時、学生として運動に参加していた女性の発言が印象的でした。
デモ行進している私たちに対してドゴール大統領は、「やつらが公共の秩序を乱すことは許されない」と糾弾した。そこでデモに参加している学生や労働者たちは、「私たちは、『やつら』ではない。『大衆』だ」と叫びました。「ドゴールは、私たちのことを公共のゴミのようなものだと言ったのです」。
「やつら」と「大衆」。
現代の世界を鳥瞰して時代を展望する時に、大きな枠組みを示唆する象徴的な図式です。
ここでの「大衆」は、ネグりたちがいう「マルチチュード」と考えていいでしょう。
1960年代は、世界各地でマルチチュード意識が芽生えた時期でした。
日本ではまさに安倍首相の祖父の岸政権に対して、学生たちの日米安保闘争が盛り上がった時代です。私が大学に入った年に、樺美智子さんがデモで亡くなりました。
70年代にかけて、世界は大きく動き出しそうな気配がありましたが、結局は逆に大きな揺り戻しの中で、世界はますます「開発」され、文化の時代には向かわずに、経済の時代へと邁進したように思います。
そして、すべてが経済に絡めとられた時代になってしまいました。
政治も文化も、スポーツもアートも、教育も友情や愛情さえも。
支配者たちにとって「やつら」でしかない大衆が、そうした経済社会を支えるために駆り出されました。
そして、表情のあった個人たちは、経済秩序の構成要素に組み込まれました。
そうした視点からみれば、経済格差は「秩序」そのものなのです。
ミャンマーの今回の事件は、そうした大きな歴史の一つの象徴的事件です。
それは決してミャンマーだけの事件ではありません。
同じことが日本でもまさに進んでいます。
そうしたことにも気づかず、日本では「やつら」扱いされた賢い国民たちが秩序にしたがっていじましく生きています。
ミャンマーの事件から学ぶことはたくさんあります。
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