■節子への挽歌22:危ういかもしれない話
「危うい話」シリーズです。
長く死体と暮らしていたとか、愛する人を食べてしまったとか、猟奇事件といわれる事件が時々起こります。
そうした事件は、私にはただ「おぞましい」だけで、事件のことを知ることさえ生理的に受け付けませんでした。
節子が遺骨になってしまってから、私は毎日、その遺骨をベッドの横に置いて寝ています。私にとっては、なんでもない話ですが、たぶん他の人からは猟奇性を感ずるかもしれません。
節子がまだ荼毘にふされる前に、その安らかな死に顔に私は何回も触れました。
弔問客があると、顔を見て触ってやってくださいなどと言ったこともあります。
隣にいた娘が、注意してくれるまでは、それが「異常なお願い」である事に気づきませんでした。私には息を引き取った後も、荼毘にふされて遺骨になってしまった後も、すべてが生きていた時と同じ、愛する節子なのです。しかし、他の人にはそうではない事に気づかなかったのです。
それを一歩進めれば、世に言う「猟奇事件」になりかねないことだと、最近気づきました。
ようやく、そうした事件を起す人たちの気持ちがわかったのです。
私がもっと強く節子を愛していたら、荼毘になどふさずに、ずっと一緒にいたかもしれません。食べはしなかったでしょうが、類する行為はしたかもしれません。
今も節子の遺骨や遺影の前で一人で考えていると、世の中の「常識」などどうでもいい、ただ節子と一緒にいたいという思いに駆られます。
そうするといつも、「みっともないことだけはしないでね」といつも言っていた節子の声が聞こえてきます。
「そうだ、そうだ」といっている娘たちの顔も浮かびます。
その声が、猟奇事件を予防しているのかもしれません。
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コメント
葬儀での経験上、遺体に触る人はいますし、それが異常とも思えません。
御自身の感覚に自信を持たれて構わないのではないかと思います。
投稿: erful | 2007/09/27 00:04