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2007/09/25

■節子への挽歌21:先が見える愚かさ、先が見えない愚かさ

節子の死は主治医たちにはほとんど自明のことだったでしょう。
医学的知識を持っている医師たちには、先が見えていたのです。
先が見えていなかったのは、私と家族です。
医学的にはどうであろうと、節子は治るんだと確信していたのです。

医師に対する私の不満は、見えている先を絶対視して考えることでした。
生命体である人間は、それぞれ違う存在であり、医学の知見が絶対ではないはずです。
それにまだまだ生命体の不思議は解明されたわけではありません。
わずかばかりの知識で、判ったような気になっている医師は、私にとっては「愚かな」存在です。

先が見えるからといって、必ずしも的確な判断につながるわけではありません。
それは病気に限ったことではありません。
「先が見える愚かさ」に陥らないようにするのが、私の生き方でした。

しかし、愚かだったのは私のほうでした。
先を見ようとしなかったのです。
先が見えるが故に愚かな判断をすることは少なくありませんが、
先が見えないが故に愚かな判断をすることは、きっともっと多いでしょう。
先を見すえて、なおかつその「先のこと」に呪縛されない生き方をしなければいけません。
私もそう思っていたのですが、節子に関しては「先が見えない愚かさ」に陥ってしまっていました。
先を見すぎる医師への反発があったかもしれません。

そうした私の小賢しさは今回に限ったことではありません。
そうした私の言動を、節子はいつも笑いながら諭してくれました。
それなのに、私の、その小賢しさが、節子に必要以上の大変さを強要してしまったのです。
今回は諭すこともできずに、節子は耐えるのみでした。
私もまた、その間違いを許してもらう機会を失ってしまいました。

先が見えない愚かな人を伴侶に選んだ節子の不幸かもしれませんが、
その点では私たちは似たもの同志でした。
先を見るのではなく、先を創ろうとするのが、私たちの生き方でした。
そして残念ながら先を創れなかった。
無念です。

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