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2007/10/02

■相撲文化の終焉

時太山の死亡に端を発した相撲業界の不祥事は、犯罪事件になってきました。
昨今のスポーツ業界には大きな違和感を持っている私も、まさかそこまでとは思っていませんでした。
相撲の世界の常識は、いまや社会の常識とは大きくずれてしまっています。
北の湖理事長の記者会見も、時津風親方や高砂親方の話も、社会の常識から考えると大きな違和感を持ちます。
その常識のずれを彼らはおそらく全く理解できずにいるのでしょう。
国技である相撲の世界が、なぜこうなってしまったのでしょうか。

ある特定の集団とそれを含む大きな社会との常識(ルール)のずれは、どうして生じるのでしょうか。
それはほとんどの場合、社会の変化に特定の組織や集団が追いついていないからです。
多様な要素から成り立つ社会は開かれていますから、常に変化しています。
しかし、組織や集団は、閉じられているために、変化に対する抵抗力や現状維持の慣性が働きます。
したがって、組織や集団が、時代のなかで、生き生きと息吹いているためには、自らを外に向けて開きながら、常に主体的に変化していかねばなりません。

相撲の世界はまさに閉じられた世界です。
しかし、社会の中で存続していくためには、ただ現状を維持すれば良い訳ではありません。
社会が変わる以上、現状を維持することは、社会との関係においては「変化」することなのです。
実体としての「維持」は関係における「変化」であり、関係における「維持」は実体における「変化」を要求するからです。
実体を維持することは「運営」であり、関係を維持することが「経営」です。
それに失敗した企業や老舗は倒産します。
制度や文化の場合は崩壊します。

今回、明確になった相撲の世界のずれは、2つの理由が考えられます。
ひとつは、時代の変化に抗し過ぎて、古い体質を改めることを怠ったため。
もうひとつは、時代の変化に惑わされて、自らの本質を失ってしまったため。
いずれというべきでしょうか。
私は後者だろうと思います。
相撲業界は旧体質の故ではなく、新体質への転換を間違ったのだろうと思います。
間違いを誘導したのは、たぶん金銭経済主義です。
そして同じような間違いを、日本の伝統ある世界の多くがおかしているように思います。
伝統もまた金銭には無力のようです。

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