■節子への挽歌41:夫婦の立ち位置と世界の豊かさ
なかなか節子が夢に出てこないので、2週間ほど前から節子のベッドで寝るようにしました。
1週間ほどしてから夢をみるようになりました。
ところで、そこで寝起きしだしてから、部屋の風景がかなり違うことに気づきました。
たかが1メートル北側に動いただけなのですが、雰囲気が全く違うのです。
こうした違いが毎日続いているとおそらく意識の面で大きな影響を与えることになるはずです。
まあベッドの位置などはさほど大きな違いではないかもしれませんが、生活における「立ち位置」の違いの蓄積は大きな違いになることを改めて実感しました。
立ち位置によって、視界や風景が変わりますから、人の意識も変わります。
夫婦の立ち位置の違いは、最近ではかなり小さくなっているのかもしれませんが、わが家は明らかに違いました。
立ち位置の違いがあることが、そしてその違いを認識しあうことが、お互いを支えあい、理解しあう上で効果的だったと思います。
昨今の男女共同参画議論は、そのたち位置の視点をあいまいにしている点が私には不満です。
違いを認識することなく、共同などという概念は生まれようがないと思うからです。
これまでは節子の立ち位置からの世界も私の一部でした。
節子の視野と風景も、私の世界を構成していました。
すべてをシェアしていたわけではありませんが、かなりの部分はシェアしていたと思います。
そういう感覚が、私たちにはかなり強くありました。
しかし、今はそれが失われ、私の世界はかなり単調になってしまいました。
これは単に伴侶を失った夫婦の場合だけに限りません。
組織が弱くなるのも、国家が弱くなるのも、同じことなのかもしれません。
節子の挽歌を書いているうちに、こうした大きな問題にもいろいろと気づきだしました。
さまざまな立ち位置を包摂する組織や社会。あるいは生き方。
これからはそうしたことが大切になっていくように思います。
寝る場所を替えてみて、気づいたことはたくさんあります。
ちょっと変えるだけで、世界は大きくなるものです。
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