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2007/10/04

■節子への挽歌30:愛する人の死が受け入れられないということ

節子の死を理解できていないことが、うまく伝わっていないかもしれません。
そんな気がしてきました。

節子が息を引き取る前、私たち家族はずっと節子に呼びかけていました。
まだ早い、もどってきてよ、と。
しかし、節子は息を引き取りました。
そんなに生々しい臨終体験をしながらも、なぜか節子の死に現実感がないのです。
写真を見ていると、今日にでもまた、あの明るい節子が戻ってきそうな気がするのです。
それが実に現実感をもっているのです。

節子にはもう会えないと頭は知っていますが、
節子にまた会えると心身が動いてしまうのです。
おかしな言い方になりますが、
会えるはずの節子になぜ会えないのかというのが寂しさの根底にあるのです。
もう会えない人であればあきらめられますし、時が寂しさを癒してくれるかもしれません。
しかし、節子はまだ私たちには存在しているのです。
だから毎日話しかけ、相談をもちこんでいるのです。
家族を亡くした人が、その人の居室をそのままにしておく気持ちと同じです。

よく、節子さんはいつもあなたと一緒にいますよ、といわれます。
私もそう思いたいし、事実、そういう気もしています。
しかし、それ以上に、節子はまだこの世に存在しているという感覚が強くあるのです。
そうした思い込みが、悲しさのショックを緩和してくれているのかもしれませんが、どうもそれだけではないような気がします。
つまり、そこにもっと大きな生命のメッセージがあるように思います。
おそらく愛する人を失ったことのある人にはわかってもらえるかもしれません。

私のこれまでの知識や論理体系は破綻しそうです。
生き方が変わるはずです。

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