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2007/10/08

■節子への挽歌34:渡岸寺の十一面観音

昨日はいろいろな元気をもらったこともあって、今日は元気に目覚めるはずでした。
だめでした。

最近、夢をよくみます。
いつも道に迷う夢です。
そこで友人に会うことがあるのですが、なぜか通り過ぎていきます。
節子の気配は、時に感じますが、姿は見えません。
節子がいなくなった不安が投影されているのかもしれません。

今日の目覚めは特に不安でした。
せっかくの決意が鈍ります。
節子の笑顔を思い出すのですが、いつもと違い、それが逆効果なのです。
節子を守れなかったのは、やはり私の責任だという思いがぬぐえません。
それは間違いない事実ですから、否定しようがありません。
しかも、節子と私は一体の存在でしたから、責任の半分は節子にあるわけです。
だからこそ、悲しさも大きいのです。
節子を守ってやれなかったことの悲しさは、たぶん誰にもわかってはもらえないでしょう。
わかってたまるかという不遜な気分もあります。
ですから慰められるとなぜか腹立たしくなります。
むしろ誰かに責めてもらいたい気分です。

節子の死は、間違いなく私の誠意が不足していたからです。
だめな夫を選んだ節子の責任もありますが。
でもこれは謝ってすむ問題ではないのです。
やっとそれに気づきました。

こうした悲しさや怒りをどこに向ければいいのか。
医師へ怒りをぶつけることもできます。
そうした思いを持ったという人は少なくありません。
知人の医師は、医療訴訟におびえている医師が多いといっていました。
確かに今の医療界は、そうなってもおかしくありません。
人間が不在になりがちな仕組みになっているからです。

しかし、つまるところは、自らへの怒りなのです。
医師に怒りを向けたところで、問題は解決できないでしょう。
怒りと悲しみは同じものです。
渡岸寺の十一面観音の喜怒哀楽の11の顔が、それを示唆しています。
節子の霊前に、その写真がたまたまあります。
長沼さんが持ってきてくれたのです。
渡岸寺の十一面は慈悲よりも悪に重きを置いているといわれています。
暴悪大笑面が有名ですが、それがまたこの観音の慈悲のメッセージを強めています。
この地が浄土真宗の信仰の厚いところだからかもしれません。
どこかに親鸞を感じさせます。
不思議なのですが、渡岸寺の十一面観音は何回もお会いしたのですが、その憤怒の顔が思い出せません。
なぜか大笑面しか思い出せません。
憤怒の顔はなかったかもしれません。

供養がまだ不足しているようです。
今日は終日、節子とゆったりと過ごしたいと思います。
怒りが解ければいいのですが。

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