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2007/10/05

■節子への挽歌31:愛は煩悩、愛は涅槃

私は節子を愛しています。
過去形ではなく、現在も、です。未来も間違いなく、愛し続けています。

仏教では、愛は煩悩であり、執着の象徴です。
愛がある故に人は悩み悲しみ迷います。
今の私がそうかもしれません。

節子が息を引き取った数日後、愛する人を失ったことがこんなにも苦しいことなのかと思いました。
人を愛することなどやめればよかったと思うほどでした。
うっかり、娘にその気持ちを話してしまいました。
そうしたら娘から、でも愛することができたことの幸せもあったのだから、と言われました。その通りです。
人は本当に勝手なものです。反省しました。

いまは、愛する人を失った、という感覚はありません。
私にとっては、節子はまだ「愛する人」のままなのです。
愛の煩悩は捨てがたいですが、その一方で、煩悩を解き放してくれる愛もまたあるのです。

仏教では、自分をなくした絶対の愛を慈悲といっています。
しかし、私には慈悲という言葉はピンと来ません。明らかに違和感があります。
節子への愛が、煩悩を超えた絶対の愛であれば、きっと私の心もまた平安になるでしょう。
その愛は、もしかしたら、個人としての節子への愛ではなく、節子を通して得た普遍的な愛かもしれません。
私の涅槃は節子のなかに見えていたのかもしれません。

真言宗でよく読誦されるお経に、般若理趣経というのがあります。
松長有慶さんの入門書をまた読み始めました。
以前読んだ時とは全く違った印象で、スーッと心に入ってきます。
煩悩としての愛ではなく、涅槃としての愛が見つかるかもしれません。

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