■節子への挽歌29:伴侶の死は自らの半分の死
伴侶の死によって、私にとっては、2人でつくってきた私たちの世界の半分が失われました。
私が生きている世界の最も重要な要素は、私と節子でした。
その2人の心身の中に蓄積された記憶や体験が世界をつくっていました。
ですから、節子の死は、その半分が失われたことを意味します。
私の半分の死でもあるわけです。
もちろん節子の心身にあった記憶や情報は私の心身もシェアしています。
しかし、ホログラムがそうであるように、
情報源の一部が失われると世界の全体像はそのままであっても全体に希薄になるのです。
これはとても不思議な感覚です。
一見、何も変わっていないように見えるのに、実際にはどことなくエネルギーやオーラが違うのです。
ですから普通に行動していても、ある瞬間に突然に力が抜けるというか、違和感が出てくるのです。
まわりがぼんやりしてきます。
伴侶の死は自分の半分の死、ということは、いいかえれば伴侶の半分の生を意味します。
こう考えると、死とか生への考え方も変わってきます。
さらにいえば、そうした相関関係は、伴侶だけではなく、家族、仲間、社会へと広がっていきます。
華厳経にインドラの網という話が出てきます。
同じ題の宮沢賢治の小品もありますが、
インドラの網とは「場所的にも時間的にも遍在する、互いに照応しあう網の目」のことです。
生命はそうしたインドラの網目だと私は思っていますが、
個々の網目と網全体とはまさに一即多・多即一の関係にあり、
網目に変化があれば網全体が変わり、そのためにまた網目も変わるというホロニックな構造にあるように思います。
この文章を読んでいる読者の変化が、回りまわって私にも影響を与えてくるというわけです。
その変化は、網目の距離によって増減するでしょうが、
夫婦はほとんど同じように変化する不二の関係にあるのかもしれません。
少なくとも私たち夫婦はそうでした。
自らが死んでも、伴侶の中に半分は生きている、と節子は気づいていたでしょうか。
いや、私自身が本当に確信できているのかどうか。
正直に言えば、まだ完全には確信できていないのかもしれません。
でも節子が私の中に生きていることは間違いありません。
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