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2007/10/19

■節子への挽歌45:死と別れ

死と別れは全く違うものです、

節子は、死を恐れたことはありませんでした。
死にたくないとも言ったことがありません。
むしろ苦しい闘病生活の中で、早く死にたいというニュアンスの言葉は話していました。

節子が悲しがっていたのは、別れです。
私との別れ、娘たちとの別れ、友人との別れ、そして自分がやってきたこと、やりたかったこととの別れです。
がんの宣告を受けた時も、節子は死に対しては何の恐れも見せませんでした。
むしろ、人は必ず死を迎えるのだから、それは仕方がない、あなた(私のことです)こそ、そのことをしっかりと受け止めてよ、という感じでした。
しかし、その一方で、節子の無念さやさびしさは痛いほど伝わってきました。
そして悔しさも。
私たちは時々、悔しさで涙を流しました。

死がもたらす別れ。
それこそが、死を避けたいと思う最大の理由のような気がします。
もしそうであれば、生きるとは関係の中にこそ意味があります。
何回も書いてきていますが、生命は「つながり」です。
人と人、人と自然、人と文化などのつながりの中に。生命は息吹いています。
人と人の関係にこそ、生命の最大の価値があります。
死は、それを断ち切ってしまうわけです。

余計なことを書けば、それゆえに、別れがプラスの価値に転ずると思う時、人は死を選ぶのかもしれません。
しかし、それは誤解です。
ある部分に限れば、別れがプラスになることもありえますが、全体の人生の中では絶対にプラスにはなりえません。
人は追い込まれると、ある部分しか見えなくなるのです。
それは東尋坊で活動している茂さんからも教わりました。

私たちは、死に直面しないと、こうした関係の大切さを気づかないのかもしれません。
別れの驚くほど大きなさびしさに思いが至らないのかもしれません。
節子の、そのさびしさを私はどの程度共有できていたのでしょうか。
今にして思えば、私はだめな伴侶でした。
今頃、涙を流しても何の役にも立ちません。
だから辛いのです。

別れが来る前に、もっともっと関係を大切にしておけばよかった、と私はいま、つくづく思います。
気づくのが本当に遅すぎました。
節子との別れが実感できるようになるにつれて、そうした後悔が高まります。

私も、自分の死は全く怖くはありません。
死が悲しいのは別れが起こるからです。
娘たちのために、もう少し生きなければいけません。

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