■権力や権威の犯罪を告発する動きが出始めました
厚生労働省が、血液製剤フィブリノゲン投与者を知りながら、本人に告知しなかったことが漸く刑事告発の次元で検討されだしました。
権力ないしは権威に対する刑事告発は、これまではなかなか難しく、よほどのことがないと行われませんでしたが、最近ようやく「告発してもいいのだ」という意識が生まれだしたような気がします。
犯罪者の属性によって、犯罪が帳消しになる社会から、日本も漸く脱しつつあるように思います。
その反動があるかもしれませんが。
この事件に関しては、以前、「厚生労働省の犯罪」として書きました。
年金に関する公務員の犯罪も刑事告発が始まりました。
同じ仲間の自治体首長は異論を唱えていますが、告発されるべきは彼ら自身でもあることを知っているからかもしれません。
管理責任を厳密に適用したら、日本におけるほとんどすべての権力者は刑事告発の対象になるかもしれません。
それは組織原理に問題があるからだと思いますが、であれば、守りではなく一緒になって仕組みを変えていくべきだと思いますが、なかなかそうはなりません。
管理型社会における組織では管理するほうの犯罪は基本的には問われずに、ただ「革命」時や「延命」時に例外的に問われるだけでした。
田中角栄への告発も、その一つの事例でした。
彼が裁かれたのは、その属性の故かもしれません。
これは私の思い過ごしかもしれませんが。
しかし、民主型の社会では権力者こそ厳しいチェックの目にさらされることになります。
そうした社会のパラダイムが移行しつつある中での混乱がいま起こっているように思います。
「弁護士の犯罪」についても書きましたが、権力と同時に、権威もまた刑事告発の対象になっていくでしょう。
なぜなら、権威の多くは権力にお墨付きをもらっていますから、権力のバリエーションの一つでしかありません。
念のためにいえば、権威は与えられる権威と生まれてきた権威があります。
弁護士は前者の典型です。
司法界の独立などは現実には、そして論理的にも存在しないような気がします。
光市母子殺害事件の弁護団こそ、刑事告発されるべきだと私は思っていますが、彼らは与えてくれた権力のために奔走しているわけですから権力はなかなか告発しないでしょう。
死刑制度の廃止を議論することは権力にとっては象徴的な問題です。
冤罪問題とは全く次元が違います。
冤罪を問題にせずに、死刑制度を問題にするところに、彼らの本質が見えてきます。
それに法曹界の仲間意識は極めて強いようですから、内側からの自浄作用も起こりにくいようです。
学校における教師の犯罪、企業組織における上司の犯罪、スポーツや文化の世界における師匠の犯罪、官僚におけるトップの犯罪、そうしたことがどんどんと顕在化してきていますが、残念ながらそれを根本から解決しようとする取り組みはあまりみられません。
結局は、防止のための管理装置をつくるだけですから、犯罪は進化しても無くなりはしないでしょう。
組織原理あるいは文化を変えていかねばなりません。
それに向かって動き出す一歩は簡単です。
すべてを透明にすればいいのです。
そしてすべての人間がつまるところは同じ尊厳さをもっていることを自覚することです。
実際には、それをどうやって実現するかが問題なのですが、先ずはその意識を持つことです。
1円から領収書を添付するかどうかなどという馬鹿げた議論ではなく、実態を見えるようにすれば、犯罪の素地は大きく変化するはずです。
事実を隠そうとしたい意識から犯罪は起こるのですから。
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