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2007/10/03

■「小人の戯言」舛添発言の意味すること 仲間の問題は自分の問題です

舛添大臣の発言がまた問題になっています。
「市町村は信用できない」という発言に、倉吉市の市長が反発し、
それに対して舛添さんは「小人の戯言」という言葉を使いました。
今朝のテレビで、たとえば落合恵子さんは「使う言葉で人柄が出る」と批判し、
鳥越憲太郎さんは「すべての市町村」という言い方を批判しました。
また、ある人は「国に対して反論する勇気」をほめました。

数日前に、私も舛添さんの発言に違和感があると書きましたが、
私の違和感は「官と民」の対立構造で捉える発想への批判です。念のため。

私は今回の一連の舛添発言に共感しています。
舛添さんがいうように、すべての市町村の役場は信用できませんし、
倉吉市の市長の異議申し立ては小人の戯言以外の何物でもありません。
使う言葉で人柄が出るとは思いますが、使う言葉で真情も出ます。
真剣に生きている人は、思いも激しく出るものです。
無責任なコメンテーターとは全く違います。
大臣になる前の舛添さんは、コメンテーターのような理屈を述べていたので、私は好きになれなかったのです。

すべての市町村が信用できないのは、どうしてか。
仲間の犯罪や不祥事は、仲間全体にとっての犯罪であり不祥事だというのが、私の考えです。
どこかの市町村が問題を起こしているのを放置していては、
そこもまた同罪だと思われても仕方がないということです。
それが制度というものです。
そうでなければ、その制度には正当性や権威は与えられないはずです。

その考えは、これまでも何回か書いています。
たとえば弁護士に関しては、光市母子殺害事件に関して書きました
まともな弁護士ならば、恥ずかしく思って、行動を起こすべきですが、
日本の弁護士のほとんどは動きませんでした。
ですから私は日本のすべての弁護士を信頼しません。
恥ずかしい職業の輩と考えています。
どんな立派な活動をしていても、共感はもてませんし、協力もする気になれません。
友人は少なくありませんので、とても残念ですが。
自浄作用がない職業は社会的にはいつか問題を起こします。
安住は許されません。

鹿児島県県議選買収にまつわる冤罪事件では、
警察や検事の組織行動であることが明らかになってきていますが、
個人の問題は往々にして組織の問題でもあります。
多くの場合、いわゆる「とかげのシッポ切り」で事件は収束されがちですが、
それでは繰り返し犯罪や不祥事は起こります。
鹿児島の冤罪事件の最大の被害者は、全国の警察であり、検事のはずですが、
彼らは対岸の火事と考えて、動こうともしません。
要するに自分たちも同じだと言っているわけです。

社保庁の問題も、よくまじめな職員もいるので可哀想だという人がいますが、
すべての職員がまじめであるはずがありません。
まじめであれば、仲間の犯罪を見過ごしはしないでしょう。
なにか行動を起こすべきです。できることはたくさんあります。

舛添さんは、市長の批判に対して、まずは自分たちの仲間の市町村にこそ目を向けろといっています。
全くそうです。
仲間が不祥事や犯罪を起こしているのに、それには目を向けず、
自分はやっていないからなどという神経が理解できません。
そうした人は公の仕事に取り組む資格がないと私は思います。
倉吉市の市長の目線は間違っています。

だんだん言葉が過激になってきました。
人柄が出てしまいますね。反省。

学校のいじめ問題、企業の不祥事、相撲業界の事件、
すべてまずは仲間が一番真剣に取り組まなければいけません。
ニーメラーの教訓は、戦争にだけ当てはまるわけではありません。
家族の問題も近隣社会の問題も、すべては仲間のちょっとした行動で抑えることもできるのです。
平和の出発点は、そうした意味での仲間意識を持つことです。

きりがありません。
ところで、みなさんの仲間は大丈夫ですか。

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コメント

一市町村職員はすべての市町村職員を仲間ととらえ、なにかあったら行動しなさい、ということでしょうか?
ちょっとおおげさすぎませんか?
そういうことをいいだすと、あらゆる人が信用できまなくなりますが。
まあ人間なんてみんな信用できない、自分すら信用できないとか居直られればそれまでですけどね。

投稿: みたらし | 2007/10/04 00:15

みたらしさん
ありがとうございます。

ご指摘の通り、ちょっとおおげさに聞こえるかもしれません。
でも、私はそうした意識と行動が大切だと思っています。
まあいいだろう、他人事だ、と見過ごすことが多すぎるのが気になります。
それに、今の日本は、縦の関係、あるいは自分たちと外部と言う図式が多いように思います。
横の仲間意識が希薄になっています。なれあいやかばいあいはありますが。
ですから誰かから批判されると、自分たちの世界に目を向けるのではなく、その弁解にエネルギーを向けがちです。それでは何も解決しないように思います。
私の友人の弁護士たちは、光市の事件の弁護団は個人的にはおかしいと皆いいます。でもそこで終わりです。それでいいのかと、私は思います。
もっとも世の中の問題はすべてつながっていますから、私にもまた責任はあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m11
このブログは、相手を批判しているだけだとある人から批判されました。
そう見えるかもしれませんが、私は、その一員でもある社会に向けて、先ずは思いを発信しているつもりです。
行動も可能な範囲でしています。

投稿: 佐藤修 | 2007/10/04 10:36

玄佑宗久さんの著書の中に、「どんなに理解不能な凶悪犯罪者の犯行も、犯人とその他の人の違いは、それをしたかしなかったかという小さな差でしかない。」という内容のことが書かれていました。
だからこそ余計に、自分は如何あるべきなのかを十分に考えていかなければならないと思います。
これは全ての人(私も含む)に当てはまることですが、公務員であればなおさら職務上でもきちんと襟を正すということですね。
佐藤先生の書いていることは私にはとてもよく分かるのですが、違う受け取り方をする人も多いようです。
ニュアンスとして如何なのかという書き方ではなく、人間社会の原理として理論をまとめていく作業が必要なのかも、と感じます。

話は変わりますが、先生の奥様に対する追悼の言葉を読んでいて、夫婦や家族のあり方について深く考えさせられました。
先生にとっては思枠外かもしれませんが、家族の大切さに気づいた人も多いのでは、と感じます。

投稿: 齋藤聖子 | 2007/10/05 14:30

齋藤さん
ありがとうございます。
お久しぶりです。

私のブログは極めて主観的で、誤解されがちな表現が本当に多いのです。
女房からいつも注意されていました。
その女房への挽歌についてのご指摘、ありがとうございます。
とてもうれしいです。
家族の意味を私たちはもっと真剣に考えないといけないと思っています。
伴侶を失って、改めて痛感します。

たまたま昨日、齋藤さんが取り組んでいる花づくり運動の掲載されている小冊子が届きました。
ささやかに関わったものとして、すごくうれしいです。
女房の霊前に供えました。
女房と一度行きたかったのに、いけなくなったのが悔しくて仕方ありません。
女房も花が大好きでした。
地元で同じような活動に取り組みたいと考えていたのですが、途中でできなくなって、とても残念だったと思います。

いつかまたそちらにも行ければと思っています。
ありがとうございました。

投稿: 佐藤修 | 2007/10/05 15:46

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