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2007/10/01

■オウムを存在させる宗教界ー「懲りない社会」

昨日、TBSの報道特集で、オウム(現アーレフ)の最近の動きが報道されていました。
唖然とする内容です。
いつオウム事件が再発してもおかしくないような気がしました。
日本は本当に「懲りない社会」です。
犯罪も事件も、汚職も不祥事も、同じようなことが繰り返し起こります。
その根底には、被害者よりも加害者の人権が重視される文化があるように思います。

確かに加害者の人権も大切ですし、加害事件を起こす社会状況への配慮も大切です。
しかし、犯罪への対処は生活の立場で再構築すべき時期に来ています。
たとえば、現在の刑法は、罪の上限が決められています。
権力による横暴を防止するためのものですが、素直に考えれば、これは権力者による専制が行われている社会の発想です。
どう考えても今の社会にはあいません。
むしろ下限を決めるべき時代に来ているように思います。
もし裁判が本当に民主化され透明性が保証されていれば、それによる問題はそうは起こらないでしょう。
今の罪の法体系は生活者の感覚には全くあいません。

犯罪者の多くは、実は権力者と通低しています。
経済事件はその典型ですが、暴力を伴う犯罪も、多くの場合権力構造につながっていると私は思います。
子どもたちのいじめ事件も、その例外ではないでしょう。
このことも、上限を決める法体系が継続されているのかもしれません。

私の発想はいささか非常識かもしれませんが、飲酒運転を厳罰にしないことで得をしているのは誰かを考えれば、そう非常識ではないと思ってもらえるでしょう。
飲酒運転による不幸な事件を激減させることは、そう難しいことではありません。
飲酒運転によって事故を起こしたら免許を永久に剥奪すればいいだけの話です。
そんな無理なと思うことはありません。
なにか不都合があるでしょうか。
もし不都合があると思う人がいたら、その人は飲酒運転があることにメリットを得ているはずです。得ていない人がいたら教えてほしいものです。
飲酒運転に限りません。
こうした例はいくらでも上げられるでしょう。
時効制度も、そうした視点で考えれば、根本から見直されるべきでしょう。

少し極端に言っていますが、現在の刑法の体系は国民を支配する手段でしかありません。
国民が安心して快適な生活をできるための刑法であれば、いまとはかなり違ったものになるでしょう。

話がまたどんどん広がってしまいました。
すみません。
今日の問題はオウムでした。
こうした犯罪集団が相変わらず宗教組織として存続を許される責任の多くは、宗教界にあると思います。

なぜ宗教界はもっと行動を起こさないのでしょうか。
自分たちの仲間の不祥事ではないのでしょうか。
少し意味合いは違いますが、ミャンマーの事件にも日本の宗教界はまだ沈黙しています。
大相撲の世界と同じく、日本の宗教界はもう死んでしまっているのでしょうか。
立派な講話をされる高僧たちは、いったい何を考えているのでしょうか。
いま立ち上がらなくて、いつ立ち上がるのか。

最近少し気がたっているせいか、言葉がきつくなりました。
節子がいたら、書き直しを求められるでしょうが、今回は思いのままに書いて読み直さずに掲載します。

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