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2007/10/31

■節子への挽歌57:死んだのは私ではないのか

「シックス・センス」という映画を見た人はいるでしょうか。
恐ろしいほどに哀しい映画です。
自分が死んだことに気付かずに、愛する妻との関係を回復しようとする男の物語です。
最後に自分が死んでいることに気付き、素っ気ない対応に見えていた妻には自分が見えていなかったことがわかる結末は衝撃的でした。
この映画を観た時、恐ろしいほどの哀しさを感じました。
今にして思うと、節子との関係を予測していたからかもしれません。

先日、朝早く目覚めた時に、この映画のことが鮮明に思い出されました。
そして、もしかしたら、死んだのは節子ではなく私なのではないかと思いつきました。
もしそうであれば、どんなにか気が楽になるでしょう。
しかし、そう考えるのは難しいようです。

節子と私が違う世界に別れてしまったという事実が意味を持っているとすれば、私が死ぬのも節子が死ぬのも同じことです。
但し、娘たちにとっては全く違います。
子どもにとっての父親の存在は、母親とは全く違います。
子どもは親を超えていきますが、母親は超えてもなお、必要な存在のような気がします。

「シックス・センス」の場合は、自らの死に気付かなかったおかげで、生者の姿が見えました。
幸せなことです。但し、生者からは見えない存在になってしまいました。
その関係が正しければ、今回は節子が死んだことになります。
私にはどうしても節子の姿が見えないからです。
そして娘たちと私はコミュニケーションできるからです。

節子は時に勘違いし、粗忽なところがありましたから、もしかしたら自分が死んだことに気付いていない可能性はあります。
「シックス・センス」の主人公マルコム・クロウのように、私の隣で、その言動をみているのでしょうか。
そうあってほしいものですが、どうもこの数日の体験からして、その可能性も極めて少ないようです。

まあ、馬鹿げた話だと思うでしょうが、夜中に目覚めて、こんなことを真剣に考えているのです。
私の世界はいまや論理的ではなくなってしまっています。

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