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2007/11/27

■節子への挽歌84:若い世代の夫婦観は「絆」だそうですが、60年代は「忍」

「佐藤さんたち夫婦は特別ですよ」。
そう言ってくださる人がいます。
通信教育のユーキャンの夫婦観に関する調査によれば、20代の夫婦観は「絆」に対して、60年代は「忍」だそうです。
しかし60代の私たちは、絆どころか異身一心でした。
忍だったらどんなによかったことでしょう。
先週お会いした初対面の人は、私の妻が亡くなって落ち込んでいることを知って、私を元気づけるためでしょうが、「自由を得たと思えばいいのですよ」といいました。
夫婦が忍の関係であれば、別れはうれしいことになるでしょうか。
決してそうはならないでしょう。

柳田邦男さんはこう書いています。
「家族同士には、他人とは異質の喜び、悲しみ、怒り、憎しみの感情がある。
そのことは精神的ないのちを「共有」していることを示すことにほかならない」(「犠牲‐わが息子・脳死の11日」)。

「精神的ないのちの共有」。
共感できる言葉です。
まさに私たち家族は、いのちを共有しています。いや正確に言えば、娘たちが20歳を過ぎてそれぞれの人生を歩みだすにつれ、家族は夫婦に戻っていくように思いますが、少なくとも夫婦はたぶんよほどのことがない限り、たとえ離婚しようが別居であろうが、そうなのではないかと思います。もし夫婦が「生活の共有」であるならば、当然のことながら「いのちの共有」でもあるはずです。
ですから、私たちは決して特別ではないのです。
おそらくどんなに仲の悪い夫婦でも、伴侶を亡くしたら私と同じ状況になるだろうと思います。
伴侶とは、夫婦とは、そういうものではないかと思います。
そうでなければ、あえて夫婦になる必要はないからです。

「忍」と「絆」。
違うようで、もしかしたら同じことなのかもしれない。
そんな気がします。

もっとも最近の夫婦は、必ずしも「生活の共有」を意味しないのかもしれませんので、これからはどうなるかはわかりません。
しかし、やはり「生活の共有」「いのちの共有」に支えられた夫婦関係こそが、社会の基盤であり続けるべきではないかと思います。
家族関係や夫婦関係は、もっと真剣に考えなければいけない「社会問題」だと思います。

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