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2007/11/21

■ビオスによる時評とゾーエによる挽歌

しばらく自分の世界に埋没していました。
無意味な言説だけが飛び交う世間の事件に対して、関心を失ってしまっていました。
嘘を承知での形だけの応酬や報道、すべての人たちが演技をしている舞台には飽き飽きしてしまってきたのです。
いまさら額賀さんの金銭疑惑など馬鹿げていますし(誰でも知っていることでしょう)、防衛省の産業癒着などわかりきっていることでしょう。

国会議員が仲間であることを知っている官僚は動きませんし、官僚が仲間であることを知っている企業も動かない。
そのことが明確に現れているのが厚生労働省ですが、そこには「小悪人」しかいませんから、悪事を隠しきれなかっただけの話です。
大悪人は防衛省や厚生労働などにはいないでしょう。

言説が飛び交う世界とは別に、アガンベンがいう「剥き出しの生」の世界があります。
彼は前者を「ビオスの世界」といい、後者を「ゾーエの世界」といいます。
ビオスとは「それぞれの個体や集団に特有の生きる形式」であり、ゾーエは「生きているすべての存在に共通の、生きている、という単なる事実」です。
これまでの政治の主役はビオスでしたが、これからはゾーエが主軸になるというのが(かなり不正確な私流の解釈ですが)、「マルチチュード」の著者ネグリの意見です。

妻が死んでから、私はまさにゾーエの世界を体感しています。
そして「生きているものたち」のやさしさやつながりを実感すると同時に、「言説」や「文化」のつめたさやおそろしさを感じています。

1週間ほど前に、時評と挽歌はビオスとゾーエの現われなのだと気づきました。
このブログでは、「時評」と並行して「挽歌」を書いています。
つまり、「ビオスの世界」と「ゾーエの世界」を交錯させながら書いているのです。

世界をどう見るかは、身近な生活、とりわけ伴侶の死にも見事に繋がっていますし、逆に伴侶の死によって見えてきた世間は、世界観にも大きな影響を与えます。
もともと私は、生き方においては「剥き出しの生」であるゾーエを大事にしてきました。
妻が亡くなったいま、その姿勢はますます強くなっています。
いつか挽歌と時評が自然と繋がっていけばいいと思いますが、まだだめでしょう。

たとえば、ゾーエの視点で薬害肝炎問題を考えるとこうなります。
フィブリノゲン問題を知りながら、ミドリ十字を存続させ、問題を地下に潜らせたのは、官僚と政治家とマスコミですが、彼らも含めて、当時の企業関係者、加担した研究者や官僚、国会議員は、死刑を含む極刑に値します。
もし彼らが、大企業や官庁に属していなかったらどうでしょうか。
彼らがやったことは残酷な殺し方でしたし、未必の故意もあったはずです。
殺人事件になりえたのではないかと思います。
しかも恐ろしいのは、関係者は今もって罪の意識もなく、また同じようなことが官僚や企業人に引き継がれているということです。
素直に生きている者として、どうしても納得できません。
自分が被害当事者になったことを考えれば、結論は一つしかないはずです。

私にとっては正直な気持ちなのですが、たぶん亡くなった妻はこの記事を見たら削除しろというでしょう。
妻は私と同じ、ゾーエの人でしたが、ビオスで生きることを大切にもしていましたから。
しかし、今の私は「生きること」にはほとんど関心はなくなり、「生きていること」に関心のほとんどは移ってしまいました。

明日からまた時評も再開します。

関連記事
■ゾーエの生命的規範とビオスの社会的規範

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