■節子への挽歌86:「社会的弱者」のコンプレックス
最近、少し「負い目」を感ずるようになってしまいました。
妻を死なせた夫は、人生における敗残者ではないかという強迫観念です。
人生の途中で生命を失った妻もまた、人生の敗北者だったのではないかという思いもあります。
こんなことを書くと、死者への冒涜ではないかと思う人もいるかもしれませんが、妻を失った夫の気持ちはそれほどに揺れ動くものなのです。
「冒涜」という意識は全くないのですが、夫婦で旅行を楽しんでいる話を見聞すると、自分ながら嫌になるのですが、そういう気持ちがどこかに生まれてくるのです。
その複雑な気持ちは、なかなかわかってはもらえないでしょうが、そのコンプレックス、劣等感が自分の言動に影響を与えてしまっていることに気づいて、それがまたコンプレックスになっていくのです。
そうした敗残者や敗北者の感覚は、行き過ぎかもしれませんが、少なくとも夫婦という形に欠陥が発生したわけで、夫婦単位で考えれば、私たち夫婦は大きな障碍を持った夫婦と言うことは否定できません。
最近の言葉を使えば、「社会的弱者」ということになります。
この1か月ほど、そうした意識がとても強くなっているのですが、そのおかげで、改めて「社会的弱者」の気持ちが今まで以上にわかるようになった気がします。
さすがに私には「可哀想に」という言葉は向けられませんが、僻(ひが)みかもしれませんが、そういう「まなざし」を感ずることはないわけではありません。
たしかに「可哀想」なのですが、そういう「まなざし」はさらに気分をへこませてしまいます。
おそらくハンディキャップをもっている人たちは、こういう「まなざし」の中におかれているのだろうなと改めて感じました。
暗い話になりましたが、一度書いておきたいと思っていた話です。
そしてこれは決して「暗い話」ではないのです。
そのことへの気づきや体験によって、実は私の世界は大きく広がったからです。
節子への愛や感謝の気持ちもさらに高まりましたし、節子とのつながりも太くなったのです。
節子、ぼくらはもしかしたら人生に負けたのかもしれないけれど、それによって大きなものを得たのかもしれないね。
でも、こんな「負い目」を感ずること自体、もしかしたら私自身が人生に負けてしまっているのかもしれません。
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