■節子への挽歌67:みんなの悲しみをわかちあう安堵感
今日は朝から雨です。
雨の日は悲しくなります。
雨の音が節子の涙に聞こえるのです。
そして灰色に覆われた空を見ていると目が離せなくなるのです。
灰色の雲の向こうに、節子はいるのではないかと思ってしまうのです。
もう25年くらい前でしょうか、初めてペルーのリマに着いた夜のことを時々思い出します。
3週間の南米旅行で私の印象に残ったのは、唯一このことでした。
深夜過ぎに空港に着き、ホテルに着いたのは確か夜中の1時過ぎでした。
空港からホテルまで、そしてホテルについてからも、私にはずっと泣き声が聞こえていました。
人の泣き声ではありません。リマの街全体が泣いているのです。
インカの涙としか思えませんでした。
この時に、「おそろしいほどの悲しさ」を初めて感じました。
一緒に行った人たちにも、それが聞こえていたかどうかはわかりません。
誰も私の話には共感しませんでしたので、私だけかもしれません。
ペルーでは、今ではほぼ砂山でしかないパチャカマの遺跡に行きました。
節子であれば、ただの砂と日焼きレンガではないかというでしょうが、
私にはそこで暮らしていた人たちの涙が聞こえてきました。
いのちの記憶は必ず残っているものです。
遺跡が好きなのは、そうした声を聴くと心が揺さぶられるからです。
灰色の空を見ていると、悲しくなる一方で、心が落ち着くのはなぜでしょうか。
きっとたくさんのいのちが悲しみをわかちあっているからでしょう。
今日はこの悲しさの中で、節子の思いに浸りたいと思っています。
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