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2007/11/09

■節子への挽歌66:献花台がにぎわってます

献花台にいろいろな人が来てくれます。
そのおかげで、私自身はなかなかお話しする機会がなかった人ともお話しする機会がもらえます。
節子の自慢になりそうですが、昨日来てくださった方は、
「節子さんのお人柄で呼び寄せられるのです」と言ってくださいました。
「奥さんの笑顔が忘れられません」と涙ぐんでくれた方もいます。
1年半前に転居してきたばかりでまだ知り合いもいない時に、
道で出会った節子が笑顔で声をかけたのだそうです。

私の書いた七七日法要の手紙を読んで、こういう心のこもった手紙は初めてでとても心に響きました、と来てくださった方もいます。
昨日ではないですが、わざわざ手紙を持ってきてくれる方もいます。
会葬御礼も七七日法要報告も、既定の様式がありますが、おそらくそうしたものは読まれずに捨てられます。
しかし、自分の言葉でかけば、それだけでみんなの心に響くのです。
そしてほんの少しかもしれませんが、ちょっと幸せな気持ちになることができるのです。
私の手紙は、特別のものではありません。
読んでもらえれば分かりますが、素直な駄文でしかありません。
だれでもが書ける文章です。
でも定型文があるために、みんな自分で書こうとはしないだけなのです。
それは死者への冒涜であり、悲しんでくださった方への無礼だと、私は思います。

昨今の葬儀のスタイルは基本から見直さなければいけません。
今回の体験で、改めてそう思います。
葬儀をしてくれた葬儀社のコンサルティングをしようかという気もしています。
節子が喜ぶかどうかが問題ですので、まだ申し入れはしていませんが、
節子が教えてくれたことは無駄にはしたくないと思っています。

私と節子の生き方が、みなさんにちょっとだけ「しあわせ」をもたらせれば、望外の喜びですし、節子にも喜んでもらえます。
いうまでもありませんが、節子の友人たちのほとんどは、どういう人か私にはわかっていません。
話しているうちに、ああそういう関係だったのかとか、節子はそういうふうに思われていたのかとか、いろいろのことがわかってきます。
私にとっては、節子との世界をさらに深めることにもなるわけです。
節子の友人たちの後ろにいる節子と出会えることは、とてもうれしいことなのです。

献花に来てくださる人たちと話していると、節子はとてもいい人生を過ごしていたのだなとうれしくなる一方で、そうした豊かな人生を続けられなかったことがますます不憫になってきます。
こんなにたくさんの友人たちに囲まれていたのに、節子はなぜこんなに早く旅立ってしまったのでしょうか。
無念で無念で仕方ありません。
抱きしめてやりたいほどに不憫です。

ところで、昨日はほかにも弔問客がありました。
キチョウです。
絵葉書のキチョウではありません。
ほんもののキチョウが献花台の周りを飛んでいました。
写真に撮り損なってしまいましたが、ちょっと幻想的な気分にひたることができました。

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