■国家を私するものたちの志
最近、テレビのニュース報道にはまってしまい、よく見ています。
今朝のテレビ朝日のスーパーモーニングは面白かったです。
政治評論家の三宅さんが、コメンテーターや司会者の知ったような発言を鮮やかに切り捨てていて、胸がスーッとしました。
本当にコメンテーターと言う人たちのコメントはリアリティがありません。
論理演算だけのバーチャルな発言だといつも感じます。
今朝のテーマは、「幻の大連立水面下の極秘交渉80日…安倍辞任劇との点と線」というものです。
そこに含意されるのは、日本の首相さえ替えてしまう「ある権力グループ」の存在を匂わせます。
私もそう考えている一人ですので、見てしまったのですが、三宅さんの見事な対応振りに見入ってしまいました。
日本の悪しき密室政治は、森政権に始まると私は思っています。
森政権は青木さんと野中さんを中心に、財界も絡んでの密室協議で政治を、もっといえば国家を、私欲の次元で私したものではないかと勝手に想像しています。
あのあたりから日本は嘘を肯定する文化が生まれだしたように思います。
つい先日、「国家を私するものたちの志こそが、国家を動かしているのではないか」と書きました。
そして、そもそも国民国家とはそういうものではないかとも書きました。
ちょっと考えの途中で書いたので、論旨不明確な記事になっていたかと思います。
「国家を私するものたちの志」は、かつてはノブレス・オブレッジの発想がセットとしてついていました。なぜなら自分のものを守るためには自分が犠牲になることはなんら抵抗がないはずだからです。
しかし、昨今の「国家を私するものたちの志」にはそんなものはなく、単なるフリーライダーの発想なのかもしれません。
現在は過渡期であり、ノブレス・オブレッジ付きの志とフリーライダー的な志が混在しているように思います。
小沢さんの志は前者、渡辺さんや福田さんの志は後者という気がしています。
だからこそ多くのコメンテーターやジャーナリストは小沢さんに厳しくあたっているのではないかという気もします。
人は自分と同じ考えの人の考えに共感するものです。
小沢さんの政策理念には全く反対ですが、最近、何となく好きになってしまいました。
つまりもしかしたら、私も平和主義者ではなく、戦争主義者なのかもしれません。
いや、本当は小沢さんも平和主義者なのかもしれません。
そうであってほしいですが、まあ、そんなことはないでしょうね。
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コメント
はじめまして。
私は全くの偶然からブログ拝見いたしました。宮崎学さんの<突破者の独り言>というコラムの『先の見えることの不幸』という小沢一郎評を探していて迷いこみ「そうそう まったく!」とか「ん~そうかな・・・?」とか言いながらあっちこっち読ませていただきました。
奥様のこと お悔やみ申し上げます。
こちらも偶然なんですが 私も三年前の夏 母を見送りました。その母の名が「節子」…
何かのご縁を感じ コメントさせていただきます。
私も小沢一郎という政治家に 良い意味でのノブレスオブレッジ(この言葉は初めて知りましたが^^)を感じている一人です。彼の政策の一つ一つを理解できているのか自信はありませんが 細川政権樹立あたりからなんとなくそんな気がしております。
>いや、本当は小沢さんも平和主義者なのかもしれません。
たぶん 冷徹な平和主義者なんだと思います…
佐藤さんが反対される政策理念 時々このブログでお書きいただけないでしょうか?アンチテーゼとして示していただけたら嬉しいんですが…
楽しみにしております では、また~
投稿: Tomoko | 2007/11/16 18:25
tomokoさん
ありがとうございます。
>佐藤さんが反対される政策理念 時々このブログでお書きいただけないでしょうか
ちょっとその意味をもう少し説明してくれませんか。
出来るだけ努力しますので。
投稿: 佐藤修 | 2007/11/16 19:56
さっそくにコメントありがとうございます。
どうぞ よろしく
>小沢さんの政策理念には全く反対ですが・・・
とのこと どんな所がどんな理由で反対なのか 示していただけると
私の考えを深める手がかりにさせてもらえるかな・・・なんてちょっと思ったのです。
投稿: Tomoko | 2007/11/16 22:03
小沢さんは、戦争ができる普通の国家を目指しています。
もちろん、その戦争は国連決議の枠内ですが、憲法9条の精神を積極的に世界に広げていこうと言う理念はありません。
また国連のスキーム自体も、私は過渡的なものだと思っています。
私はネグリの「マルチチュード」の発想に共感していますし、
世界の構図を「国家」を軸にするのではなく、「個人」を軸にして考えています。
戦争をする権利をどう位置づけるかは、国家をどう位置づけるかにつながっています。
そして、たとえば「生活に関する政策」に関しても、おそらく微妙に違っていくのだろうと思います。
昨今の福祉政策やコミュニティ政策も、管理や措置、あるいは排除の発想がまだ強いように思いますが、こうした事ともつながっていくような気がします。
不十分な説明です、すみません。
これからまた意識して書いて行きます。
投稿: 佐藤修 | 2007/11/17 07:55