■節子への挽歌83:ストイックな秋、平和につながる生き方
今年の秋は紅葉が美しかったのでしょうか。
私は一度も紅葉を見ませんでした。
紅葉が好きだった節子と一緒でなければ見ても悲しくなるだけだからです。
節子は紅葉とか桜が好きでしたから、紅葉はテレビですら見られないのです。
来年の春も桜を見る気にはならないでしょう。
節子がいなくなってから、私の生活はとてもストイックになりました。
私だけが楽しいことを体験することには何となく「罪の意識」を感ずるのです。
いや、「罪の意識」というよりは一緒に体験できない節子の不憫さが頭をよぎってしまうのです。それは同時に、愛する伴侶と世界を共有できないでいる自らの不憫さを味わいたくないからでもあります。
楽しいことが辛いことになるという、見事な価値転換が起こってしまうのです。
ですからできるだけ身を縮めて、ストイックな生き方に心がけているわけです。
それは決して残念なことでもなく、むしろそこにこそ節子と世界を共有しているという幸せを感じられるのです。
価値転換がここでも見事に働くわけです。
喪にふくすとは、こういうことかもしれません。
発想を膨らますのが好きな私としては、これこそが平和につながる生き方ではないかという気にまでなりそうです。
しかし、宮沢賢治がいうように、世界にあるたくさんの不幸を考えれば、ストイックに生きることこそ正しい生き方のようにも思います。
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