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2007/11/29

■自由人とは自らにとっての真理を語るものである

自由人とは真理を語るものである。
これが古代ギリシアの自由人の定義だったそうです。
真理を語るのは、誰にも拘束されたり迎合したりしていな証です。
逆に真理を語れないのは誰かの、あるいは何かの奴隷だと言うわけです。

もっとも「真理」などというのは捉え方でいくらでも変わります。
「真理」は時代や文化のそれぞれに、存在しますから、唯一絶対の真理などあろうはずもありません。
ただ社会を維持していくためには、メンバーが共有する最小限の認識はが不可欠ですから、それを「真理」と呼ぶわけですが、それにしてもそれは絶対であるわけではありません。
「真理」は多様であり、生きています。
その認識こそが、「真理」を見るための出発点だと思います。
であればこそ、誰にも拘束されることなく、自由に「自らにとっての真理」を語り合うことが大切です。
先入観のない真理への思いをぶつけ合うことで、「真理」はいのちを与えられ、歴史は動き、社会は硬直化による死から解放されます。

こうした視点から考えると、日本では「真理」が語られることは少ないように思います。
多くの人、いやほとんどの人が「真理は与えられる物」と考えていますから、自らの違憲の根拠を誰かの発言に依拠しがちです。
そうやって、社会の「真理」は強固になっていき、そこから外れたものは多くの人には見えなくなっていく恐れがあります。

19年前、自由人になりたくて会社を離脱しましたが、以来、自由に考え語ることが私の自負の一つでした。
しかし最近、妻への妄念が強すぎて、真理が見えなくなってきているかもしれません。
いや、感受性が研ぎ澄まされて、真理が見えすぎて混乱してしまっているのかもしれません。

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