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2007/11/17

■節子への挽歌74:「とてちりてん」を観ていると節子を思い出します

NHKの朝の連続ドラマ「とてちりてん」をみていて、いつも節子を思します。
そして、ちょっとした場面で、涙が出てしまうのです。
妻を亡くした落語家が3年間、落語もせずに寝てばかりいる。
そのまわりで、主人公の家族たちのあたたかなつながりが展開されています。
家族の中心は主人公の母親です。
他にもさまざまな「つながり」が並行して、展開しています。
かなりコミカルな話なのですが、毎回のように私には涙があふれてきます。
人のつながりの哀しさ、喜び、あたたかさを感ずるからです。

以前だったら、そうは感じなかったと思いますが、
いまはちょっとした仕草や言葉から、その奥にある世界が感じられ、
それが私自身の世界につながってくるのです。
形はかなり違いますが、わが家にあった風景を見ているような気がすると同時に、
妻を思って何もできずにいる落語家の気持ちが、まるで自分の気持ちのように感じられるのです。
こんなに鮮やかに生きられたらいいなあ、という羨望の念も少し感じます。

私には、そうした潔さがかけていることを自覚していますので、なおのこと無念さもあるのです。
第一、こんなブログを書き続けることも、未練がましい小賢しさの現われです。
そう思うなら、そうしたらいいではないかとも思うのですが、そこまでふんぎれません。
未練がましく、社会との接点を持ち続けているわけです。
四六時中、妻を思って、寝てばかりいる落語家に敬意さえ感じます。
もしかしたら、節子も私にそうしてほしいと思っているかもしれません。

先週、久しぶりに知人に会いました。
私が、お話をさせてもらう場にわざわざ訪ねてきてくれたのです。
そして、鳩居堂のお線香などをもらいました。
10年以上もほとんどお会いしてもいなかった人です。
話をしていたら、実はその人のパートナーも闘病中なのだそうです。
なぜかとても心が通ずるのを感じました。

当事者の感受性は研ぎ澄まされます。
他の人にはなんでもない言葉に過剰に反応してしまうと同時に、
普段ならなんでもない言動に心が揺さぶられるのです。

節子は、しかし、私以上に感受性を研ぎ澄ませていたのでしょう。
それにきちんと対応できなかったことが悔やまれます。

節子に対しては、最後まで鈍感で終わってしまいました。
節子がいなくなって、2か月以上たって、初めてその鈍感さに気づきました。
そうした間違いを、きっとたくさんしているのでしょうね。

自分の愚かさに気づくたびに、節子の賢さに気づきます。
人の聡明さは、知識や論理ではなく、感性や素直さなのかもしれません。
今となって、やっと節子のほうが、私よりも聡明だったことに気づきました。
まあ、知識や論理は私のほうが格段に上のはずですが?、
そんなことは生きる上では、瑣末なことでしかありません。

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