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2007/11/25

■「暗殺 リトビネンコ事件」

一昨日は、昨年暗殺された元FSB(旧KGB)将校、リトビネンコの一周忌でした。
東京では、チェチェン連絡会議主催の「追悼集会」が開かれました。
昨年のアンナ・ポリトコフスカヤさんの追悼集会にも参加できなかったのですが、今回も参加できませんでした。

昨日、日本テレビの「ウェーク」で、チェチェンの特集をしていました。
来年公開される映画「暗殺 リトビネンコ事件」の一部が紹介されていました。
そこには暗殺される前のポリトコフスカヤさんも出てきます。
彼女はこう発言しています。
「衝撃の事実よ、あの悲惨なテロがヤラセだったのに、政府も平気な顔よ」

チェチェンの事件は衝撃的でしたが、その真実を知ることはさらに衝撃的です。
この映画がすべて真実かどうかはわかりませんが、かなりの真実さがあるようです。
番組の中で、どなたかがまるで映画の世界だというような話をしていましたが、
実際には映画の世界は常に現実の後追いなのかもしれません。
それが私たちには見えないだけです。
国家は国民を守る、国家は正義、国家に対する暴力はテロ。
そういった国家が創りあげてきた概念に、私たちは呪縛されています。
いや、そうした概念を定着させることで、国民国家は成立しているといってもいいでしょう。
国民の主体性は国家によって形成され、正当化されてきているのですから。

ロシアはまたスターリンの時代に戻っているようです。
国民国家というのは管理体制を強化する方向性を内在していますし、
いわば正当化された暴力を自由に駆使して国民を統治する存在です。
とりわけロシアのような大国においては、中途半端ではない暴力装置が必要になってくるでしょう。

しかしチェチェン事件の顛末はあまりに疑惑が多すぎます。
国家への恐怖心が拭いきれません。
これはなにもロシアに特別な話ではありません。
中国でもミャンマーでもブータンでもイスラエルでも北朝鮮でもアメリカでも同じなのではないかと思います。
もちろん日本でも、です。
程度の差はあるでしょうが、それは私には瑣末な話にしか思えません。

国民国家はもはや役割を終えて、新しい世界の枠組みが生まれだしているという考えは少なくないですし、
たぶんそうだとは思うのですが、しかし今を生きる私たちは国家から自由になることは出来ません。
せめて可能な範囲で、国家権力あるいは政府の言動を注視し、
たとえ見えにくいものであろうとも見ようとする姿勢が不可欠だと思います。
もちろん、政権の透明性の向上やガバナンスの仕組みも大切ですが、
国民一人ひとりが政府の言動を見据えていくことが一番大事です。
それにしても、日本の昨今の政権与党政治家の言動は、あまりにも不透明です。
その不透明さを糾弾し明らかにしていく役割を持っている野党の政治家やジャーナリストの姿勢にも、どうも及び腰さを感じます。
国家権力の前には、だれもが萎縮してしまうのでしょうか。

日本ではまだ、ポリトコフスカヤ事件やリトビネンコ事件は起こってはいませんが、
起こってもおかしくないような状況が忍び寄ってきているような恐怖を感じます。
ロシアの事件ではありますが、同時にこれはグローバル化した世界の現代の事件です。
その意味で、私たちも決して無縁ではないのです。
チェチェンの教訓を肝に銘じておきたいと思います。
コラテラル・ダメッジを正当化できる国家権力はここまでできるのです。
私には、この事件が薬害肝炎事件に重ねて見えてきてなりません。

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