■節子への挽歌81:優柔不断さと思い切りの良さ
節子が一緒に活動していた花かご会のみなさんが、我孫子駅前の花壇を整備してくれています。
季節の変わり目で、先週、全く新しくなりました。
その時、とった千日紅の花が節子のお墓に供えられた話は前に書きました。
そのお礼にメールをしたら、返事が返ってきたのですが、そこにこんな文章が書かれていました。
今夏の花はほとんどとってしまいました。
まだまだきれいに咲いている花もあるのですが、「公共の場にある花壇なので、季節ごとに思い切ってとってしまわないとね」と、節子さんとよく話したことを思い出します。
へえ、そんなことを話していたのかとちょっとうれしくなりました。
時々、私の知らない節子に会えるのです。
「思い切って」。
この言葉を節子がよく使っていたのを思い出しました。
節子はとても慎重で、むしろ優柔不断と思えることが多かったのですが、時には思い切って行動するタイプでもありました。
私が25年間勤めた会社を突然辞めると言い出した時にも、何も言わずに即座に受け入れました。
私の両親との同居が話題になった時にも、ほとんど間をおかずに自分から同居を買って出ました。
私は少し躊躇していたのですが。
自分が胃がん宣告を受けた時にも、それまでと全く同じように行動していました。
箱根で日産自動車のゴーンさんがいるのを見つけたら、英語も話せないのに突然近寄って「夫と一緒に写真を撮らせてほしい」といって、私を呼んだ時は驚きました。
物をとても大事にするタイプなのですが、なぜか時々、スパッと捨ててしまうこともありました。
私と節子が結婚する契機になった節子の手づくりセーター(おばけのQ太郎が刺繍されていました)も、ある時に捨てられてしまいました。
何で捨てたのか、と異議を申し立てたのですが、そんなものをとっていても意味がないでしょうというのです。
私以上に過去に興味がなかったのかもしれません。
そのくせ、日記を書くのは好きでした。
むすめたちは、節子が私のような夫を選んだことこそ思い切りがいい(但し間違った選択だった)といつも言っていましたが、本当によくまあ、私のような人と結婚したものです。
なにしろ私の話を聞いた節子の両親は、あわててわざわざ京都まで会いにきました。
親戚はすべて反対だったのです。
でも結婚してしまいました。
もっとも事情は私も同じで、私も最初は家族は反対でした。
話がちょっとそれてしまいましたが、時々、思い切りのいいところのあった人でした。
もっとも、身の丈よりも大きな話は判断できなかったのではないかという見方もあるのですが。
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