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2007/11/25

■節子への挽歌82:「さわやかな節子さん」

節子は転居前、民生委員をさせてもらっていました。
私が大きな福祉を目指すコムケア活動に取り組むだいぶ前からです。
民生委員の現場の仕事は家族にも話せないといって、時に悩みながらも話してはくれないこともありました。
いろいろと生々しい現場に直面することもあり、そうした時には何となく状況が垣間見えたりはしましたが。
なかにはかなり大変な問題もあったように思います。
いろいろな人に声をかけ、解決に取り組もうとしたのに、なかなかうまくいかず悩んでいたこともありました。

その民生委員の仲間だったHさんとSさんが献花に来てくださいました。
転居した時に民生委員は辞めていましたので、もう6年もたっていますが、それ以来もいろいろとお付き合いがあり、節子と3人で旅行にも行っているそうです。
いろいろと節子との楽しい話を聞かせてくださいました。
そして2人の口から何回か出てきたのが、「節子さんはいつもさわやかでした」という言葉でした。
「さわやか」
私は意識したこともなかった言葉です。
またひとつ、私の節子のイメージが豊かになりました。
「さわやかな節子」
そういえば、たしかに結婚前の節子は「さわやかさ」がありました。
まあ表現を変えれば、単純で素直なだけ、ともいえるのですが。
嘘のつけない子でした。

節子さんは辛いだろう病気のことも、自分の身体のことも、とても明るくすべてを話してくれていました。すごい人だと思っていました、とも言ってくれました。
節子は今年になってから、腎臓から直接カテーテルで排尿するようになっていました。
最初はすごいいショックだったと思います。
外から見てもわかるのですから。
でもそれも持ち前のアイデアでおしゃれな手づくりポシェットでちょっと見ただけではわからないようにしてしまったのです。
それで外出もできるようになりました。

Hさんは習字の先生でもあるのですが、節子はそこに通っていました。
カテーテルをつけたままです。
そしてみんなとのおしゃべりのなかで、そんなことまであっけらかんと話していたのだそうです。
どんな辛いことも明るく話す。
自分の弱さも隠し立てせずに話す。
そうした節子をお2人は「さわやかな」と表現してくれたようです。

隠しだてをしないのは、私たちの文化でした。
隠しても必ずいつかはわかるものだと、私たちは知っていたからです。
そして隠す気持ちがあると、人との付き合いは楽しくなくなることも知っていました。
積極的に自らの弱みを開いていくというのは、私の生き方でしたが、節子はそれに共感してくれたのです。
そして、私以上にそうなりました。

外に向かっては、どんなことでも明るく話すのが節子の良いところでした。
時々、私には辛さや悲しさを話すこともありましたが、でも私を悲しませないために、いつも私よりも明るくしていました。
たしかに節子は「さわやかな人」でした。

やっと気づいた「さわやかな節子」。
しかし、そのさわやかな節子がもういないと思うと悲しくて仕方がありません。
この悲しさは、たぶん誰にもわかってはもらえないでしょう。
「さわやかさ」の奥にある節子の思いを知っているだけに、悲しくて悲しくて仕方がありません。

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