« ■節子への挽歌84:若い世代の夫婦観は「絆」だそうですが、60年代は「忍」 | トップページ | ■持続可能性を高めるための多様性 »

2007/11/28

■節子への挽歌85:事象としての死、経験としての死

昨日、柳田邦男さんの言葉を引用しましたが、思い出したことを今日も書きます。

柳田さんは、「3人称の死」と「2人称の死」という言葉で、死を語っています。
簡単にいえば、医者は生物学的な生命という視点から3人称的に「患者の死」を考えるが、患者にとっては言うまでもなく「1人称の死」である。
そのことを意識して、「精神的ないのち」の次元を重視した「2人称の死」として対応することが重要だというのです。

妻の死を体験したものとして、とても共感できる話です。
しかし、これは医者の問題だけではありません。
節子がいなくなってから、痛切に感ずるのは、
「事象としての死、経験としての死」ということです。
つまり当事者(夫婦、家族を含む)にとっての死とそれ以外の人にとっての死は全く違うものであるということです。

柳田邦男さん風にいうと、「いのちを共有」している人の死は生々しい自らの「経験」ですが、それ以外の人の死は、どんなに悲しくて寂しくても対象としての「事件」なのだということです。
こんなことを言うと、節子の死を悲しんでくれたたくさんの人の涙を裏切るようで申し訳ないのですが、お許しください。
節子の親友たちは、私以上に涙を出し、今でもとても悲しみ寂しがってくれています。
そのお気持ちを軽く受け止めているわけではありません。
もしかしたら私以上に節子への追悼の気持ちは強いかもしれません。

でもたぶん私が感じている死とは全く違うのだろうと思います。
注意しないと誤解されそうなのですが、どちらがどうだといっているわけではありません。
いのちに軽重がないように、いのちへの思いも軽重はないでしょう。
でも、「事象としての死」と「体験としての死」は全く異質なものではないかと思います。
ですから、私の気持ちは絶対に他の人にはわからないということです。
そして、節子の死は決して時間の経過の中で風化もしませんし、時が癒してくれることはないでしょう。
私が生きている限り、忘れることなどあるはずがないのです。
軽々に人の伴侶の死を語ることは戒めなければいけません。
それが体験者の正直な気持ちです。

少し時評にからめて付言すれば、
私たちはいま、あまりにすべてのことを「事象」の次元で捉えがちです。
たぶんそこからは未来は開けてこないような気がします。
このことはいつかまた「時評」のほうで書いてみたいと思います。

|

« ■節子への挽歌84:若い世代の夫婦観は「絆」だそうですが、60年代は「忍」 | トップページ | ■持続可能性を高めるための多様性 »

妻への挽歌01」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/17163462

この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌85:事象としての死、経験としての死:

« ■節子への挽歌84:若い世代の夫婦観は「絆」だそうですが、60年代は「忍」 | トップページ | ■持続可能性を高めるための多様性 »