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2007/11/30

■守屋事件をどう問題設定するか

額賀大臣がどこかの宴席に出たかどうかが話題になっていますが、
どうして日本のマスコミは問題の立て方がこうも断片的で表層的なのでしょうか。
肝心の問題を見えなくしてしまうだけです。
マスコミの役割は事実を明らかにし伝えることでしょうが、
問題設定の仕方を間違ってしまうと事実は全く違った見え方をしてしまうことはいうまでもありません。
正しい解は正しい問の設定によって可能になります。
問題を解決するということは、実は問題を設定するということなのです。
そうした認識は日本では希薄です。
日本の教育は「問題を解くこと」に専念させられているからです。
昨今の教育再生議論にも、そうした視点は少ないように思います。

マスコミが世論を作り出すのは、そう難しいことではありません。
見出し一つで読者の印象を左右することができるからです。
世論の評価も意図的に操作することが可能です。
アンケート調査や電話調査も、質問項目や質問の仕方でかなり答えを誘導できますから、世論作りのために動員されます。
問題設定も、実は世論混乱のために行われているのかもしれないと思うほどに、昨今のマスコミの問題の立て方は扇情的です。
マスコミのトップが政治や経済に大きな影響を与える国ですから、そういう疑問も一概に否定はできません。

堀田力さんは、先週土曜日の報道ステーションで、
守屋・宮崎事件は「せこい事件」として、構造的な問題の可能性に否定的でした。
とても意外な発言でした。古館さんもちょっと残念だったようです。
しかし実際のところ、そうなのかもしれません。
守屋夫妻の逮捕の報道内容を見ると、そんな気もしてきます。
守屋夫妻の異常さが余りにクローズアップされてしまっています。
確かに異常かもしれませんが、その周辺に同じような人たちがたくさんいたし、いるはずです。
もしかしたら、本人も周りも気づいていないことだってあるでしょう。
言い換えれば、社会全体が「守屋化」しているのですから。

私は守屋事件は決して個人の話ではないと思っていますが、
私の判断材料の多くもまたマスコミ情報に依存しています。
もちろん私独自の直接的な状況証拠もないわけではありません。
そうしたことがなければ、このブログの記事はすべて勝手な創作活動になってしまいます。
多くの記事は、私が直接見聞したことを起点にしています。
やや過剰に解釈し、過大に展開する傾向はありますが、それは私の性格ですので仕方がありません。
私がいろいろな形で垣間見た僅かのことですら、
問題の立て方次第では、ここに展開しているような構造的な問題につなげていけます。
同じマスコミ情報も、認識の枠組みを少し変えるだけで違った風景になってきます。
マスコミが立てた問題の呪縛から自由になって、個々の事柄を見ていくと、もしかしたら違った風景が見えてきます。
多くの人たちが、そうやって自分の眼で世界を見ていくと、世界は大きく変わっていくような気がします。

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