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2007/12/02

■再犯防止できない刑罰制度のジレンマ

大阪の郵便局で男が現金を奪い、追跡した人を包丁で刺し重軽傷を負わせた事件の犯人が「刑務所を出たばかりで、年を越す金がなかった」と供述しているという報道がありました(11月27日の各紙)。
それに関連して、読売新聞に次のような記事がありました。

法務省が再犯者の実態を取り上げた07年版の犯罪白書でも、再犯件数の多さが指摘されており、更生の難しさが改めて浮き彫りになった。
白書によると、昨年まで過去58年間の有罪確定者から無作為抽出した100万人のうち再犯者の割合は28・9%だったが、犯罪件数をみると、調査対象の約168万件の57・7%を再犯者による犯罪が占めた。(2007年11月27日 読売新聞)
再犯比率の高さには驚きます。
これに関連して、思い出すのが、私が最近はまっているフーコーの主張です。
フーコーは「監獄の歴史」のなかで、有名なパノプティコンを題材に現代社会の本質を見事に読み解いていますが、監獄に関しても次のようなことを主張しています。
刑罰の主要な目的は違法行為のつぐないをさせることであるが、それは同時に犯罪者を改心させるということを補足的な目標としている。そして、その装置としてつくられたのが「監獄」だが、監獄はむしろ犯罪を再生産する装置になっている。
フーコーは、監獄は法律違反者を拘禁し、矯正しているようにみえるが、実際はその厳しい行刑の技術を通じて危険な「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性をもつものとして社会に循環させている、というのです。
そして、彼は監獄制度は失敗だったといいます。
にもかかわらず、監獄がなくならないのは、それが、刑罰制度の必要性を正当化する「非行性」の概念と存在を生み出し、監獄を含めた刑罰制度の存在を正当化する基盤を、自らの効果として産出しているからだというのです。
あまりにも粗雑な紹介なのでわかりにくいかもしれませんが、納得したい方はぜひ「監獄の歴史」、もしくはフーコーの解説書をお読みください。
私はとても納得できます。
いまの刑罰制度が守ろうとしているのは何なのかも垣間見えてくるような気がします。
法曹界はもっと真剣に「再犯問題」を考えるべきではないかと思います。
それは何も刑事事件に限った話ではありません。
民事も商事もです。もちろん政治事件もです。
しかし、再犯防止に成功すれば、自らの職を失いかねませんから、彼らは再犯防止どころか、再犯奨励に熱心になってしまうのでしょうか。
ここの司法のジレンマが存在します。

詳しくは記憶していないのですが、今月初めに父親の暴力から家族を守るために父親を殺害した息子の裁判が報道されていました。
とても家族思いの評判の良い息子だったため、その地域で減刑嘆願運動が起こり、それもあって確か懲役15年の求刑に対して、半分くらいの判決が出たという記憶があります。
嘆願運動をしていた人たちは刑が軽くなって喜んでいましたが、私はこの事例は執行猶予にすべきだと思いました。
家族を支えてきたその息子が収監されることで、彼も家族もおそらく良い方向には行かなくなると思うからです。
彼のような場合は再犯の可能性は限りなくゼロですから、矯正の必要はないでしょうし、むしろ彼が守ったことをこそ守る判決でなければいけないように思います。
そうしたところに、日本の裁判の脱価値性を感じてしまいます。

監獄に限りませんが、こうした「自己準拠的な構造」をもつ制度は他にもたくさんあります。
いや、そもそも近代文化は、産業のジレンマに象徴されるように、そうしたジレンマをかかえたものなのだろうと思います。
再犯が多いことの意味はもっと真剣に考えなければなりません。
法曹界の人たちはそんなことは考えないでしょうから、社会問題にしていかなければいけないテーマかもしれません

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