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2007/12/01

■節子への挽歌88:当事者の身勝手なわがまま

実にわがままなのですが、今の私はコンプレックスの塊なのかもしれません。

先日、犯罪被害者の方の話がテレビで紹介されていましたが、その方は娘さんを殺害され、そのことで奥さんが精神的に病んでしまった結果、自殺してしまったそうです。
その方が、妻は、娘を殺された後、外部からの連絡も少なくなり、孤立感を高めたようだ、というような話をされていました。
その言葉に私もハッとしました。

節子の葬儀の後、たくさんの人が弔問にきたり、電話をかけてきたりしてくれました。
今もなお、献花に来てくれる人がいます。
誰かが来てくれるということは、節子のことが忘れられていないということです。
とてもうれしいことです。

しかし、毎日誰かが来るわけではありません。
実に勝手なことなのですが、誰も来ないと見捨てられた気がするのです。
相手の人は、電話していいものかどうか、あるいはわざわざ献花にいって迷惑ではないか、などとむしろ遠慮しているケースもあります。
実際に、来るのはかなり勇気が必要だったといった方もいました。
来ることばかりが、節子のことを思っているわけではありません。
しかし、その方がどんなに思っていてくれていても、当事者にとっては実感できません。
ですから実際の活動が途切れると孤独感が生まれるのです。

病気で妻を亡くした私の場合ですらそうですから、犯罪被害者の場合はもっと深刻なはずです。
声をかけるほうも難しいでしょうし、家族の孤立感も大きいはずです。
その犯罪被害者の奥さんの気持ちがよくわかります。
わがままといわれるでしょうが、当事者はそんなものなのです。

みんなそれぞれに問題をかかえています。
ですからよその家族の不幸ばかりを気にしていることはできないことは当然です。
しかし、被害者にしろ遺族にしろ、当事者はどうしても自分の不幸を中心に考えてしまうのです。
その温度差がどうしても出てきます。
孤立感が高まりだすととまらなくなる恐れもあるのです。
最近は、そうしたことを避けるためのセルフヘルプグループも増えてきていますが、それだけではたぶん問題は解決しません。
これは当事者になって初めてわかることかもしれません。

しかし、当事者の「わがままさ」はこれにとまりません。
来ないと薄情なと思うのですが、来たら来たでまたわずらわしいのです。
みんなに気にしていてほしいけれど、気にしすぎてはほしくない。
実に身勝手なわがままさです。

以前も書きましたが、どう対処しようと当事者は満足できないのです。
困ったものです。
私の場合は、しかし理想的な対応をしてくれた人が何人かいます。
いつかその方法を書きたいと思いますが、まだ今は書くことを躊躇します。

できるだけたくさんの人に、節子のことを時々思い出してほしいと思っています。
すごく自分勝手な願いなのですが、節子のために私がしてやれる数少ないことの一つだからです。
当然の事ながら、私はほぼ四六時中、節子のことを思い続けています。
今の私には、それが生きる意味の一つなのです。

そして同時に、
坂出市の事件も、光市の事件も、
友人知人の逝ってしまった家族のことも、
今、辛い現実に立ち向かっている友人たちのことも、
節子への語りかけの中で思いを馳せ、節子と話すようにしています。
こうした思いを馳せていることの表現の仕方は、
節子が逝ってしまった後、友人知人から教えてもらったことです。

相手に伝わらないままで、思いと馳せ続けることこそ大事だとわかっているのですが、
自分のことになると、まだそれを実感したいという身勝手さが首をもたげます。
そんなわけで、頭と気持ちはなかなか一致しませんが、
当事者の身勝手なわがままさから早く抜け出したいと思っています。

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