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2007/12/18

■迎撃体制の整備は自衛に繋がるのか

朝日新聞の記事です。
弾道ミサイル防衛(BMD)の海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を搭載した海上自衛隊のイージス艦「こんごう」は17日正午すぎ(日本時間18日早朝)、米ハワイ沖で初の実射訓練を実施し、標的のミサイルを大気圏外で迎撃するのに成功した。

北朝鮮からの核攻撃に対する迎撃体制が前進したと言われています。
そうでしょうか。
詳しく書き出すと長くなるので、今回は問題提起だけです。

私は「迎撃」という概念に違和感を持っています。
つまりそれは、相手を信頼していないことだからです。
孫子の兵法を持ち出すまでもなく、「相手を負かせること」は「自衛」にはなりません。
迎撃戦略は発想の起点において戦いを目指しています。
かつて盛んに言われたエスカレーション発想では、戦いはなくならず、結局は自衛できない、というのが私の発想です。
代替案は、オスグッドの「一方的削減による軍縮」に見るような、デスカレーション発想です。
さらに考えていくと、「自衛」という概念の危うさに気づきます。
自衛とは所詮は攻撃の正当化理論でしかありません。

佐世保の事件、家族や親戚間の事件から始まって、安全保障や国防の問題まで、もしかしたら問題設定の根幹が間違っているのではないかという気がしてなりません。
そう考え出してから30年以上たちますが、まだ答を見出せずにいます。

今回は問題提起だけですが、このテーマを少しずつ考えていきたいと思い出しました。
「自衛」という概念そのものに、実はさまざまな問題が含意されていることに、漸く気づきました。

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