■節子への挽歌117:2人で過ごす「無為」の時間
今年の年末は、何もやる気がなく、手持ち無沙汰です。
節子がいた時は、どうしてあんなに忙しかったのでしょうか。
自分の生き方を、今になって反省しています。
節子に指摘されていた意味が漸くわかってきました。
大切なことからではなく、どうでもいいことから始める、あなたの生き方を変えないとだめよ。やることが山積みのときでも、私は気が向くままに、好きなことから取り組むのが常でした。
忙しい忙しいと言っているのに、実際にはどうでもいいようなことをやっていて、
寝る時間の直前になってからようやく明日までにやらなければいけないことに手をつけだすのが、私の習癖でした。
そのため、いつも節子は、やらなければいけない「大切なこと」からやらないとだめよ、と注意してくれていました。
私と節子とでは、「大切なこと」の意味が違っていたのです、
節子がいう「大切なこと」は、それをやらないと誰かに迷惑をかけることでした。
私にとっての「大切なこと」は、やっていて楽しいことでした。
ところが、節子がいなくなってから、やっていて楽しいことがなくなってしまったのです。
だから時間をもてあましているわけですが、しかし一方で、友人知人に頼まれていることはたくさんあるのです。
もちろん私が担当の家事もたくさんあります。
仕事も引き受けていますので、やらないと誰かに迷惑がかかることもあるでしょう。
しかし、楽しくないことには気が向きませんし、気が向かなければ仕事はできません。
勝手だといわれそうですが、私の仕事は「その気」にならないと成果をあげられないのです。
まぁ、節子に叱られた時にはいつもそういう「言い訳」をしていました。
不思議なのは、節子がいなくなった後、どんな仕事も楽しくなくなってしまったのです。
目的が見えなくなったからでしょうか。
節子がいようがいまいが、関係ないはずですが、ともかくやる意義が見出せないのです。
そんなわけで、節子が最後までいた和室で、節子の写真の前で無為に過ごしていることが少なくありません。
それが無駄なのか、意味のあることなのか、わかりませんが、少なくともその時間は、私たち夫婦の時間です。
そういう時間を持てることに感謝しています。
ただ、なぜ節子がいた時にもっとこういう時間を持たなかったのか、それが悔やまれてなりません。
空気と同じで、それがなくなって初めて大切さがわかることもるのです。
その時は、すでに遅いのですが。
「無為」の時間を過ごすこと。
宇宙の大きな流れからみれば、個人の一生はそれ自体「無為」といっていいでしょう。
いろいろとやっているようですが、結局は無為に等しいことでしかありません。
その無限の無為が重なって宇宙になっていくのでしょうが、
逆にそういう視点から考えれば、無為とがんばりとの違いもないのかもしれません。
まぁ、節子の写真の前で、そんなことを考えているわけです。
困ったものです。
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