■節子への挽歌96:節子は「私の女」でした
「いい女だった」と言う話を書きましたが、もう少し書きます。
節子が「いい女」に育ったのは、実は私の働きかけが少なからずあったと自負しています。
誤解されないように付け加えますが、私を育てたのは間違いなく節子です。
節子と結婚していなかったら、私はかなり違った人間になっていたと思います。
同じように、節子もまた、違った人間になったはずです。
もちろん「素質」は、それぞれの固有のものでしょうが、私たちはお互いを育てあう関係でした。
これはなにも私たち夫婦に限ったことではないでしょう。
夫婦とはそういうものだと思います。
育ち方が良かったか悪かったかは何とも言えませんが、私たちはお互いに感謝しあっていました。
節子も私も、相手から実にたくさんのことを教えてもらったのです。
お互いに、とても出来の悪い生徒でしたが、まあ相互に合格点を出し合えるものでした。
「マイ フェア レディ」のイライザを例に出すまでもなく、人は愛する人によって変わります。
そして愛する人を変えていきます。
私たちが自らを変えられたのは、相手を愛していたからです。
もちろん長い人生ですから、いつもいつも夢中だったわけではありません。
時に愛が冷めた時期もありますが、それでもどんな時でも、お互いにかけがえのない存在だったことは間違いありません。
節子は私との離婚を考えたこともあるとよく話していましたが、気楽にそう言えるほど、私たちは仲が良かったのです。
いつもながら、好都合な解釈ですが。
ところで、節子の「出来上がり」はどうだったでしょうか。
私には「最高の女」でした。
たくさんの欠点も含めて、「最高の女」でした。
「完璧な女性」とか「素敵な女性」とかとは程遠い存在でしたので、
他の人からの評価は、とてもとてもだめでしょうね。
でも、繰り返しますが、私にとっては「最高」だったのです。
私にはそれで充分でした。
節子は私の女だったのですから。
「私の女」。問題発言ですね.
でも間違いなく節子は「私の女」でした。
私のための、まさにカスタムメイドの女性でした。
節子もきっと否定はしないでしょう。
私にとって、あんなにいい女房はいませんでした。
まあ、ほかには女房はいないので、当然なのですが。
節子はいつもそういって笑っていました。はい。
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