■節子への挽歌114:「そうか、もう君はいないのか」
城山三郎さんが先に逝った奥さんのことを書いた遺稿が本になるそうです。
その紹介が先日、朝日新聞に出ていました。
城山さんの奥さんもがんで亡くなったそうです。
その紹介記事の中に、とても心に響く言葉が二つありました。
(母が亡くなってからの父は)「半身を削がれたまま生きていた」。
娘さんの言葉です。
「半身を削がれたまま」。
実によくわかります。
私もまさにそういう状況です。
実際には「半身」どころではなく、ほぼすべてが削がれたといったほうが実感にあいます。
これまで育ててきた世界が、あるいは育ってきた世界が無くなってしまったという気持ちなのです。
そうした喪失感は自分でもわからないほどに、大きく深いのです。
妻がいない世界を生きていることが信じられないといってもいいでしょう。
にもかかわらず、半身を削がれたまま生きていけるのは、削がれた半身の記憶があるからです。
そして、その記憶が、「生きる力」を与えてくれるのです。
奇妙に聞こえるでしょうが、削がれた半身に支えられて生きていると言ってもいいかもしれません。
この言葉に出会った時に、まさに自分自身の生き方を指摘されたような気がしました。
もう一つは、遺稿の本の書名になる城山さん自身の言葉です。
「そうか、もう君はいないのか」。
この言葉で、城山さんの思いがいたいほど伝わってきます。
城山さんは今年3月に亡くなりました。
いまはきっと2人でなかよくやっているでしょう。
節子はまだ1人です。
彼女は「そうか、まだ修はいないのか」と言っているかもしれません。
城山さんがちょっとうらやましいです。
半身が削がれているせいか、この冬の寒さはとてもこたえます。
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