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2007/12/15

■節子への挽歌104:「闘病で学んだことを伝えたい」

節子 退屈にしていませんか。
あなたがいないと時間を持て余してしまいます。
やらなければいけないことは山ほどありますが、やりたいことがないのです。
やらなければいけないことでも、やりたくなければやらないのが、私の生き方でしたが、その傾向はますます強まっています。
節子がいない世界で、がんばる意味など何もないからです。
餓死しても節子のところに行けるのですから、今や何をしても私は幸せになれるわけです。

昨日、テレビで「スティーブ・マックィーンのすべて」というドキュメンタリーを観ました。
最初は、まさに若い頃を思い出して気楽に観ていたのですが、最後の10分くらいは、節子のことと重なってしまい、画面に引き込まれそうになりました。
マックィーンの言動が、節子の言動に重なってひびいてきたのです。
マックィーンは50歳で病死したのですが、最後は生きつづけようとがんばったようです。
「闘病で学んだことを伝えたい」とも思っていたといいます。
ほかにも思い当たることがいろいろとありましたが、ちょっと辛くて書く気がしません。
でもマックィーンと節子の共通点が見つかるとは思ってもいませんでした。

このドキュメンタリーを観る前に、Tさんから電話がありました。
Tさんはこのブログを読んでいてくれますが、本にしたらどうかと言ってきたのです。
このブログが本にならないことは書いている私が一番よく知っていますが、マックィーンの番組を見ていて、節子が生きている世界を創れるかもしれないと思いつきました。
その番組はすべてがマックィーンの家族や友人知人の発言で構成されています。
それ以外のナレーションは皆無です。
時にマックィーン自身の発言も出てきますが、いろいろな人の発言がひとつの人格を生み出しているのです。
おそらくそれは実在したマックィーンとは別の、もう一つのマックィーンの人格といっていいでしょう。
その人格はおそらく「不死」と考えていいでしょう。実体がないのですから。
彼は映画スターですから、映画の画面が挿入されており、映画の役柄での言動も、その人格づくりの大きな要素になっていますが、その点を除けば、誰にでもできることかもしれません。
そう考えていくと、このブログは、もしかしたら「佐藤節子の復活の場」にできるかもしれないと思いつきました。

またわけのわからないことを言い出した、と思われそうですね。
たしかに節子には時々わけのわからないことを言って苦労をかけてしまいました。
私はわけのわからないことがともかく好きなのです。
でも節子は、わけがわからなくても、結局は「やってみたら」と言ってくれました。
それが私の原動力になっていたのです。

私自身は「闘病で学んだこと」を節子に代わって書いていくことはできませんが、「節子と一緒に学んできたこと」を伝えることはできるかもしれません。
「いなくなった節子から学んだこと」も書いていけそうです。
また節子の友人知人からもらった手紙などに書かれている「思い出」をつないでいくこともできます。
そんなことを考えながら、このブログにも取り組もうかなと思いつきました。
このブログこそが、新しい私たちの生活の場になるわけです。

どうやればいいのか、またどうなるのか、まだ全くわかりませんが、節子もそちらからいろいろと情報を送り込んできてください。
これは私たち2人の世界を再構築していく壮大なプロジェクトになるかもしれません。
まあ、成功する確率は1000にひとつ、あるかないかですが。
失敗の確率が高いことほど、やりたがるのも私の性癖の一つですから。

でも何かわくわくしますね。
節子、わくわくしませんか。
久しぶりのコラボレーションです。

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