■節子への挽歌116:「花より団子」「花よりこころ」
今日は、節子への内緒話です。
節子に聞かれるときっと掲載禁止になると思いますので。
節子の供養に来てくださる方のなかには、「花より団子」といいながら、花ではなく供物として果物を持ってきてくださる方もいました。
花はいろんな方からもらっていたので、花より団子はありがたいことでした。
しかし、「花」と「団子」とは、その意味合いが全く違います。
いつかそのことを書きたいと思っていましたが、注意しないとせっかくのお心遣いを否定することになりかねないので、書くのを躊躇していました。
でも、このブログでは当事者の思いをできるだけ知ってもらったほうがいいと思い、書くことにしました。
失礼な発言があったらお許しください。
それに、これは私だけの考えかもしれません。
花より団子、という言葉には比較が入っています。
そのために、当事者はいささかの感情を持ってしまいます。
花も団子も供養の手段ではあるのですが、当事者には微妙に違うのです。
「花」は主に死者に向けられていますが、「団子」は主に遺族に向けられています。
愛する人を亡くした当事者にとっては、その違いは大きいのです。
遺族よりも死者への供養をしてほしいと思ってしまうのです。
なにしろ頭の中には死者のことしかないのですから。
花が聖なるメッセージの象徴であるとすれば、団子は俗なメッセージの象徴なのです。
死者が生前、とても好んでいたものであれば、意味合いは違ってきます。
むしろその場合は、団子も「花」的な要素を持ってくるということです。
つまり、供物として団子が悪いということではないのです。
「花より団子」という言葉があまり適切ではないということです。
もっと端的に言えば、「比較」を内包する言葉は、弔いや供養の場面では使うべき言葉ではないように思います。
今にして思うと、実は私自身使ってしまっていたこともあるのですが、反省しています。
理屈っぽい話ですみません。
しかし、気分が落ち込んでいる当事者にとっては、そうした小さな言葉づかい一つひとつが心にグサッとくることもあるのです。
しかも、それは必ずしも明確に伝わるわけではありません。
いわゆるサブリミナルに印象を残すのです。
こうした「異常な感受性」におそわれて、私自身、ほかの遺族の人と接しられなくなってしまいました。
同時に、誰かに会うのも恐ろしかったのです。
過剰に「見えてしまう」気がするからです。
最近、やっと少しずつ落ち着き出しました。
せっかくなので、さらに余計な一言を付け加えます。
大切なのは、花でも団子でもなく、こころです。
「花よりこころ」、ではなく、「花にこころ」というべきでしょうが。
花や団子を使わなくても、こころは表現できることを改めていろいろと学びました。
私自身は、そうした生き方を心がけてきたつもりなのですが、なかなかできていないことにも気づかされました。
素直な思いをお伝えしたくて、勝手なことを書いてしまいました。
他意はありません。
団子を届けてくださった方、気を悪くしないでください。
私も同じようなことをこれまでやってきたのだろうと思います。
またぜひ団子も持ってきてください。はい。
追記(2007年12月28日)
このブログを読んだ人から、私のことね、という電話がありました。
その人が「花より団子」と言ったことは、実は記憶になかったのですが、
言われてみると確かにそんな話をしていたかもしれません。
その方は、ブログを読んで、とても気になり、真意を伝えたくて電話をしてくれました。
その話を娘にしたら、○○さんも「花より団子」と言ってたよと言うのです。
ところが、その記憶もないのです。
思っていた以上の方が、そういう言葉を話しているのかもしれません。
ですから、この記事を読んで、不快な思いをされた方が少なくないのかもしれません。
やはり載せなければ良かったですかね。
節子がいないとやはり問題を起こしがちです。困ったものです。
この記事に関する続編は改めて書きます。
どうぞ気を悪くされないで下さい。
当事者と周囲の人との意識の微妙なずれを書いておきたかっただけなのです。
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