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2007/12/17

■教員免許更新制に見る常識的判断の落とし穴

世の中の問題は多くの場合、実に多義的です。
それは社会が複雑であり、さまざまな状況があるからです。
自分の狭い世界での常識的判断が、自らの意図に反した結果につながることも少なくありません。
たとえば、学校の給食に関して、週1度くらいは親が作った弁当の日にしたらどうかという話はどうでしょうか。
多くの方は賛成するでしょう。しかし実にさまざまな問題がそこには含まれているのです。
これに関しては以前書きました

こうした話はたくさんあります。
だからこそ、いろいろな立場で議論を交し合う場が大切なのです。
私のこのブログも極めて個人的な意見でしかありません。
実に唯我独尊的です。
光市母子殺害事件に関して弁護士への厳しい非難をしていますが、これも私の個人的な立脚点の枠内での意見でしかありません。
しかし、だからこそ私にとっては大事な主張であり、それを正すべき情報があれば正すことには何の抵抗もありません。
そうした主観的な考えのぶつかり合いに、私は価値を見出しています。

自分の考えや判断を主張する以上、常にそれを相対化させておくことが大切です。
それができれば、自分の主張を強く出せます。
所詮は多くの主張の一つでしかないのですから。
多くの人がそうした姿勢を持ち出せば、社会は変わるはずです。

多角的な見方が大切なことを教えてくれる事例をもう一つ書きます。
教育基本法が変化し、教員免許の更新制が導入されました。
これをどう評価するべきでしょうか。
不適格教師を排除するために望ましいことではないかと多くの人は思うでしょう。
私もそう思いましたが、ただ「不適格」という言葉にひっかかりました。
ここに落とし穴があります。
問題は、この制度の導入の意図と管理運営する主体です。
国歌国旗に関しては、前に書きました。
そうした事件に「不適格教師」の捉え方をイメージできます。
体制維持を望む人にとっての「不適格教師」と子どもたちの教育にとっての「不適格教師」は全く違います。いま学校で「不適格教師」と捉えられている人たちの実像は私たちにはなかなか見えません。
防衛省の守屋事件を思い出してください。
守屋さんの行動をおかしいと指摘した人は、おそらく「不適格職員」として排除されたでしょう。
偽装表示に異を唱えた人は企業やビジネスから排除されている事例は山ほどあります。
学校もその例外であるはずがないと思わなければいけません。
そう思わないのは、思いたくない心情の成せる技です。

常識的な反応と判断は大事です。
しかし、そこには大きな落とし穴があることも認識しておくことが必要です。

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