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2007/12/21

■薬害肝炎訴訟にみる棄民政策

薬害肝炎訴訟の和解協議が最悪の結末に向かっているように思います。
国家と国民の本質をこれほどわかりやすく露呈した事件は、そう多くないでしょう。
かつて、国家により推奨された南米などへの移民政策が、戦後になって「棄民政策」だったことが露呈されましたが、私自身はまずそのことを思い出しました。
愛国心の強要と棄民政策が、コインンの表裏であることはいうまでもありませんが、改めて最近の国家政策を見ていくと、おそろしいほどに「棄民発想」が感じられます。

今回の和解協議の「和解」には、根本的に欠けていることがいくつかあります。
一つは理念です。
具体的なところでの考えや価値観は同じでないのは当然ですが、最終的なところで理念を共有していないのであれば、和解などは成り立ちません。
最終的な理念とは、今回のことでいえば、人間として、生命を最優先に考えていこうということです。
その出発点は人間同士の会見です。
思いの共有ですが、福田首相はそこから逃げました。
福田首相には、主体性を持った人間的な言動は、この件に関してはほとんど見えません。和解に取り組む一方の主体者にはなろうとしなかったということです。
まさに手続きの時代の首相です。
時代はきちんと時代にふさわしい人を選ぶものだと改めて感心しました。

理念が共有できない場合に出てくるのが「お金」です。
現代の「お金」は、異質な価値を一元的な価値に換算する「機械的」な仕組みですが、まさに価値代行機能によって、次善の手段として和解にはよく登場します。
政治決裁ならぬ、経済決裁、いや経済決済です。
これまた手続きの時代の決裁手段ともいえます。
お金は万能とみんな思っているのです。
ちなみに私はそうは思っていませんが、それでもそうした呪縛から自由かといえば、自由ではありません。

しかし、お金で和解に乗ってしまった被害者側の当事者は、おそらく例外なく敗北感をどこかで持つことになるでしょう。
問題が、いまなお進行する「生命の問題」でなければ、それはまだ後悔で済むかもしれませんが、過去のことではなく未来にも繋がる問題であれば、お金の問題は全く別の議論となるでしょう。
そのことにすら政府は気づきませんでした。

福田首相や町村官房長は、自らの周辺に病身の人や障害のある人をお持ちではないのでしょう。愛する人もいないのでしょう。
いや、仮にいるとしても関心などお持ちではないでしょう。
つまり彼らは人間の原理に気づいていないのです。
そうでなければ、あんな表情であんな発言ができるはずがありません。
枡添大臣は論理矛盾の発言を繰り返してきているように思いますが、
結局は自分を賭けていなかったと思います。
福祉とは何か、と言う基本的なことがわかっていない。
彼は本当に介護に関わったことがあるのか、そんな気さえします。

患者を線引きする、金で解決しようとする、直接のふれあいもしない、つまり資料上の事象としてしか受け止めない、そうしたことの根底にあるのは、国民を愛する気持ちではなく、棄民する思想です。
棄民の対象がいつ自分のところに回ってくるか、私たちももっと想像力を発揮しなければいけません。
ぜひ「マルチチュード」を読んでください。

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コメント

佐藤先生、お元気でしょうか。
薬害肝炎に対する政治決断が出ましたが、私は政府の対応については良くがんばったなという感じを持っています。
患者の線引きについても、この年まではC型肝炎というものが特定できていなかった(非A非B型肝炎という名称で呼ばれていました)以上国の責任についても問えないのでは、と考えます。しかし政治決断の中身は、線引きはするものの保障内容はそれほど大きな差をつけない内容になっています。
ただ政治の一番大切な部分である首相の言葉が足りなかったと感じます。
一刻も早く患者を救済するためには、首相の十分な謝罪と、二度と繰り返さないという決意とともに、保障内容はいま国に出来る最大限のものであるという真摯な説明が必要だったのでしょう。
ニュースで見る限り、感情か先立っている原告の患者に対しての言葉の力の大きさを感じていない政治家にもどかしさを感じます。
この問題は患者側が「納得」しなければ解決しないのですから。
うがった見方かもしれませんが、原告弁護団の補償額引き上げ工作なのかとも考えてしまいます。
患者が早く救済されることを願っています。

先生の奥様に対する挽歌ですが、少しづつ変化が感じられます。
変なたとえですが、将棋でいえば負けた悔しさから放れて感想戦をしているところ、という感じです。少しづつ昇華させているようです。
幸せな人生だなあと思います。
少しづつ元気になっていくようで、private読むのが楽しみです。

投稿: 齋藤聖子 | 2007/12/22 22:32

齋藤さん
いつもありがとうございます。
元気ではあります。はい。

>感情か先立っている原告の患者に対しての言葉の力の大きさを感じていない政治家にもどかしさを感じます。

全く同感です。
政治にとっては「言葉」は大切ですが、今の日本の政治家は言葉をあまりに軽んじているように思います。

薬害肝炎問題は解決に向けての話し合いが動き出したようでよかったです。
ところで国の責任ですが、これについては12月25日に少し書きました。
ここでは別の視点を一つだけ書いておきたいです。
これは私の知人のブログにコメントしたものです。

日本において、薬が薬になるためには、国家の認可が必要です。
薬は例外なく有害性を持っていますから、どの程度の有害性かが重要な判断基準になりますが、しっかりした精査に基づいた判断の透明性が求められます。
それが十分でなければ、不作為の責任が発生します。
十分であるかどうかは、問題の予兆が見つかった時の対応に現れます。
知見に関しては、いうまでもなく、どの知見を重視するかで結果は全く変わってきます。
また疑わしい事実が発見された時の対応も重要ですし、社会問題化した後での対応にも認可を与えた文化は顕現します。
前後の文脈をみれば、厚生省の犯罪体質は明白だと私は思います。
それはフィブリノゲンに始まった話ではありません。

さらに、被害にあった人たちの救済は別問題です。
法治主義の「法」は必ずしも法文ではないはずです。
法の理念に基づくことが大切ではないかと思います。
今回の動きには棄民政策を感じます。

以上が投稿の内容です。
齋藤さんへの返事にはなっていませんね。
すみません。

投稿: 佐藤修 | 2007/12/27 16:56

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