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2007/12/26

■ゼロ・トレランス発想にみるマイナスの循環

教育再生会議の第3次報告の概要を新聞で読みました。
競争促進的な管理志向が少し弱まったような気がしますが、
基本トーンはあまり変わっていないようです。
教育再生で目指している「再生」すべき価値は何なのでしょうか。
それがすべての出発点でなければいけません。
再生とか改革とかいう言葉が安直に使われる風潮に危惧を感じています。
理念や価値観もなく、そういう言葉は使うべきではありません。

今日は教育再生の問題です。
学校の荒廃を正して行くための、ゼロ・トレランスの流れが加速しています。
ゼロ・トレランスは文字通り、寛容さ(トレランス)を捨てて厳罰主義を貫くということです。
私が40年前に会社に入った頃、ゼロ・デフェクト運動(ZD)運動というのが始まっていました。
品質管理技法です。
工業の論理が人間の世界、しかも教育の世界にまで広がっているわけです。
間違いなく失敗するでしょうが、それを正す動きはなかなかでてこないでしょう。
なぜなら管理側にとって失敗が見えてくるまでにはかなりの時間がかかるからです。
厚生省や農水省の犯罪と同じ構図があります。
これを文部科学省の犯罪というのにはいささかの躊躇がありますが、
こうした流れを止められなかったという点では、
彼らは小泉・安倍政権に加担したと言われても仕方がないでしょう。

しかし、今日の話題は、文部科学省の犯罪ではありません。
因果の逆流、あるいはマイナスの循環の話です。

ゼロ・トレランスの動きを支えているのが、
子どもたちを甘やかすことが校内暴力や学級崩壊をもたらすという認識です。
この因果関係は必ずしも立証されていないと思いますが、
さらに問題なのは、「甘やかす」の中身です。
それが子どもたちの自主性を尊重し、管理基準を緩やかにするということに置き換えられて、
厳罰・規律・管理主義へとつなげられていることです。

厳罰主義は規律管理を強化するということと同義です。
創造力に富み感受性の高い、個性豊かな子どもたちを、
大人たちの都合に基づいて管理し型に当てはめていく。
これは教育の対極にある訓練でしかありません。
産業社会の教育はそれでいいのだといわれればそれまでの話ですが。
しかし、教育によって主体性を確立していない子どもたちに訓練を施すとどういう結果になるか。
「ボーン・アイデンティティ」の世界の出現です。

学校の管理主義が校内暴力や学級崩壊の原因ではないかという指摘もあります。
因果のベクトルをどう捉えるかで、世界の見え方は一変します。
1980年代以降の管理教育の徹底と「内申書」重視の入試体制の強化が、
学校を荒廃させてきた面は否定できないことでしょう。
そこから急速に「学びの場」の崩壊が始まり、管理と逸脱の悪循環が始まったのです。
こうしたマイナスの循環は、さまざまなところで起こっています。
9.11事件の始まる「報復の連鎖」も、その一つです。

イラクの事実が示すように、マイナスの循環を反転させるのは発想の転換しかありません。
つまり、因果のベクトルを変えることです。
私が30年前に書いた「21世紀は真心の時代」で考えていたのは、
そうしたベクトルの逆転だったのですが、
時代はますますマイナスの循環に陥っているような気がして残念です。
せめて私自身は、そうした循環を逆転させる生活をしようと心がけています。
因果の呪縛から抜け出すと、世界の風景は変わってきます。

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