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2008/01/30

■節子への挽歌150:「亡くなった奥さんは喜ばないと思いますよ」

私を元気づけるために、さまざまな言葉をかけてもらってきました。
感謝しなければいけません。
しかし、何回か書いたように、悲しさや寂しさに打ちひしがれて人にはどんな言葉も逆効果になりがちですし、もし打ちひしがれない場合にはどんな言葉も心をすり抜けていきがちです。

しかし、自然に出てきた言葉であれば、逆にどんな言葉でも当事者の心に入ります。
感受性を高めている弱い人は、幼い子どもたちがそうであるように、また社会的弱者といわれる人たちの多くがそうであるように、言葉は表現ではなく、その心に反応するのです。
不遜な言い方かもしれませんが、私は節子との別れを体験して、初めて子どもたちやハンディキャップを持つ人の感受性が少しわかったような気がしています。

私が気になった言葉の一つに、
「亡くなった奥さんは喜ばないと思いますよ」
という言葉があります。
節子の気持ちは、夫である私のほうがわかっているという自負があるからか、私にはとても違和感のある言葉です。

40年以上、生活を共にしてきた私たち夫婦の間に、他の人が入り込める余地は皆無だと私は思っています。
間違っているかもしれませんが、そう思っています。
娘たちは、幸いにそのことをしっかりと認識しているようで、とても彼女たちに感謝しています。
彼女たちの声は、女房の声に近いのです。
そして私は、その声に違和感をもったことは一度もありません。
生活を共にするということは、きっとそういうことなのだろうと思います。
生活を共にする覚悟がないのであれば、結婚はすべきではありません。
男女の関係は、何も結婚だけではありませんから。

不条理に伴侶と別れるという状況に置かれて、「言葉」の意味がよくわかりました。
言葉が伝えることは、言葉で語られる内容ではなく、その言葉から見えてくる話し手の心です。
しかし哀しいかな、私たちはどうしても「言葉」の内容で発語し、受容しがちです。
そして自らの主観的な基準で、相手の心を解読し、反応してしまいます。
だから、相手の気持ちを忖度できずに、不快感さえ時に持ってしまうのです。
そうした時の自己嫌悪感もまた、大きいのですが、自然に感ずるのですから仕方がありません。
困ったものです。

ちなみに、私の今のすべての言動は、私の中に生きている節子との共創の結果なのです。
節子は今なお、私の内部で生き続けているのです。
節子が悲しむとしたら、おそらく私もまた悲しんでいるのです。

もしかしたらまた余計なことを書いてしまったかもしれません。
もう佐藤さんには声をかけられないな、と思われてしまいそうですね。
すみません。
でも、声をかけてくださった方の思いは、しっかりと受けとめていますので、お許しください。

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