■能動的な集中力と受動的な集中力
この数年、相撲を見ていて思うのは、日本人とモンゴル出身者との「集中力」の違いです。今場所も、両横綱は安心して見ていられますが、日本人の力士は何となく不安があります。
その違いは、集中力の圧倒的な差のように思います。
産業社会の行く末に強い懸念を抱いていたシュバイツァーは、産業社会における人間を「不自由で、不完全で、集中力がなく、病的に従属的で、全く受動的」であると指摘していました。
その正しさがいま、見事に証明されてきていると思います。
集中力は生命力に直結しています。
厳しい自然の中で身を守っていくには、集中力は欠かせません。
産業化が進み、豊かな物財と安全な環境が整備されるにつれて、集中力がなくても生きていけるようになったのは、好ましいことかもしれません。
その結果、私たちは集中力を低下させているのかもしれません。
集中力だけではなく、身体の感覚や機能も生きるためにはそう必要ではなくなってきました。
ヘッドフォンで外に向けた聴覚をスイッチオフして歩いている人も少なくありません。
しかし皮肉なことに、実は新しい危険が広がり、競争条件もある意味では過酷になってきました。
そうした中で、これまでとは全く異質の集中力を発揮している人が出始めました。
今回の株価の乱高下で、1日にして20数億円も利益を得たネットトレーダーがいます。
しかし、その集中力は生命力とは無縁なものでしょう。
シュバイツァーの発想で言えば、きっと「受動的な集中力」です。
さまざまな壁にぶつかっている産業社会に、新しい地平を開くのは、人間的な能動性であり、集中力です。
おそらくそれこそが「人間力」なのでしょう。
社会人基礎力とか受動的な集中力は、むしろ人間の根本を弱めていくような気がします。
それにしても、モンゴル出身の2人の集中力、あるいは生きる力には、感動すらします。
正月に朝青龍の帰国を許さなかった日本人に比べて、彼らのいのちは輝いています。
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