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2008/01/10

■競技としての政治、価値としての政治

■競技としての政治、価値としての政治 (2008年1月10日)
新テロ対策特別措置法案が明日にでも成立することになりました。
結局、憲法59条の2/3条項で、多数党の政府の意思が貫かれることになります。
パワーポリティクスの象徴的な行為です。
参議院での議論は全く意味を持たなかったということになります。
せめて参議院での議論を踏まえて、再審議するのが、最低の義務だと思うのですが、参議院での議論が始まる前から、否決しても2/3条項で成立させると独裁的発言をしていた政府を抑えることはできなかったわけです。
民意と政治をつなぐマスコミは機能していなかったことになります。
「議論する政治」の死を感じます。
いろいろと議論されたことの意味は何だったのか、むなしさが残ります。
競技としての政治への関心は高まっても、価値としての政治への関心はこれでまた低下するのではないかと危惧します。

自民党も民主党も、選挙に勝つか負けるかで、すべてを考えているのではないかとさえ思えるのが昨今の政治です。
それを支えているのが、私たち国民です。
いまや政治は競技になってしまいました。

報道ステーションの古館さんの発言には、いつも共感を持ちますが、しかしその無力さにおいては、私のこのブログとたいした違いがないようにも思います。
たしかに影響力においては、比べようの無いほどの差があり、政治への影響力もあるでしょうが、今のところ古館さんが手応えを感ずるような結果は出てきていないような気がします。
次々と起こる事件や問題に対して、無機質な報道とは違った人間の視点からの評価はしていますが、それが大きな世論を起こすところには届いていません。
薬害肝炎事件はマスコミの後押しが効果を発揮したかもしれませんが、拉致問題も年金問題もイラクやアフガン問題も、独法改革もテロ問題も、うやむやのまま既定の方向に進んでいるように思います。
古館さんの情念があれば、この閉塞状況を打開できると思うのですが、その仕組みを創った途端に、報道の中立性とか何とかという批判が起こって、番組自体が影響を受けるのでしょうね。
報道に中立性などあろうはずがないのですが、すべてが虚構の論理の上に立っている情報社会は、気がつけば恐るべき管理社会なのかもしれません。

新テロ対策特別措置法案成立の報道にはとてもやりきれない気がします。
予想されていたことではありますが、どこかで新しい風が吹くことを期待していました。
期待するだけではだめなことはよくわかっているのですが。

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