■節子への挽歌145:節子は私の所有財産だったのか
昨日の話を続けます。
先日、エーリッヒ・フロムの「生きるということ」に言及しました。
言葉の確認のつもりで書棚から引っ張り出したのですが、
もう一度読み直したくり、読み出したらなにやら身につまされる話で、
気分がちょっと沈み出してしまいました。
昨日の記事もその延長なのですが、自分がひどく自分勝手なのではないかという気がしてきました。
なぜそう思い出したか、その一端を今日は書きます。
フロムは、人が生きていく上で2つの基本的なライフスタイルがあるといいます。
財産や社会的地位や権力の所有にこだわる「持つ存在様式」(The Having Mode)と、
自分の能力を能動的に発揮し、生きる喜びを大切にする「在る存在様式」(The Being Mode)です。
フロムが警告しているのは、産業社会では「持つこと」が重視される結果、
さまざまな問題が生じるばかりか、社会そのものが危機にさらされるということです。
私が以前読んだ時に受けたのはそのメッセージで、それに大きな影響を受けたのですが、
今回読み直してみて、次の文章が心にグサッと突き刺さってしまいました。
(「持つ存在様式」の人にとって)もし持っているものが失われるとしたら、その時の私は何者なのだろうか。「挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在」。
挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在以外の何者でもない。
まさにいまの私ではないか。
もしかしたら、私は節子を「所有」していたのではないか、と気づいたのです。
今の私の空しさは、愛する人と話せない寂しさではなく、
大切な財産である妻を失った喪失感ではないのか。
私は妻や家族を、自分の所有財産と考えていることはなかったか。
フロムの問いかけに、残念ながら胸を張ってそんなことはないと言いきれません。
ですから、きっと一遍上人の「さすれば人と共に住するもひとりなり」という心境になれないのかもしれません。
「本来無一物」などの心境は、まだまだずっと先にありそうです。
何を辛気臭いことを考えているの、だから体育会系でない人は駄目なのよ、と節子に笑われそうですが、
私にとっては、かなり大きな問題なのです。
困ったものです。
まだこの話は続きます。
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